絶対的パフォーマティヴ

 ついに非常勤初日。ところが、数日前まで勘違いして来週からだと思いこんでた(休講の連絡をして判明)。あぶないところでした。

 来週のレクチャーに向けてそろそろ没入体制。やはり、ヴィルノの「現状のアーティキュレーション」はすばらしいのだが、では、出口は? という点について思い悩む。

 ひとつ到達した考えは、「反転された革命」について。ヴィルノはイタリアにおける77年の運動が、ポストフォーディズムを準備してしまったことを繰り返し述べているが、これは単に60・70年代の運動の「敗北」のみをシニカルに述べているのではなく、その敗北の残滓こそが現状を根本的に構成しているということなのだ。「革命」は潜勢力となってポストフォーディズムを下支えしている。これは高度に二面的ではあるが、「可能性を手放さない」身ぶりでもあるのだ。

 もう一点、下の本を読んでいて、ヴィルノがabsolute performativeなるものについて論じていることを知る。困ったことに出典を示してくれていないのだが、このようなサイトを発見し、2003年の著作『言葉が肉となるとき』(未訳)で論じられている模様であることを知る。「絶対的パフォーマティヴ」は、「私は語る……」という言語行為によって定義される。それはあらゆるパフォーマティヴの「直前」(時間的な意味ではなく)にあるパフォーマティヴであり、「言語の出来事性」そのものである。……って、これはハーマッハーの「アフォーマティヴ」ではないか! この路線でアフォーマティヴ再び、か。でも、前回アフォーマティヴについて随分いじめられたんだよなあ……。

 (ちなみにリンクをはったサイト、イタリア系思想家のテクストの翻訳なども多数。使えます。)

Capital and Language: From the New Economy to the War Economy (Semiotext(e) / Foreign Agents)

Capital and Language: From the New Economy to the War Economy (Semiotext(e) / Foreign Agents)