ポストフォーディズムからベーシック・インカムへ

 昨日は風邪を引いているところにTAGTAS設立プロジェクトのレクチャーへ。大貫隆史氏との共同レクチャー「前衛の系譜学」を。これ、約一年前に同じような形でしゃべったものに少し手を加えたもの。

 薬でもうろうとしながらも、やはりここでしゃべると反応がよく、翻ってわれわれの「業界」ではこういう反応のあり方、つまり自らの経験の全重量をもって反応しようとするあり方ってないよなあ、と思う。

 終了後、id:melanie-ji-wooさんに、「最初にレーニンによる『前衛』の横領ということを言いつつ、最後に『無能なものたちの共同体』(田崎英明)を拒否するなら、共同性についてなんらかのことを言わないとだめなのではないか」という非常に鋭い指摘を受ける。しかし、このレクチャーはレクチャーというより、一種のマニフェストを目指したものだったのであり、そこには共同性に「ついての」語りはないかもしれないが、「われわれは前衛である」という呼びかけ行為はあったのだと思う。というのは逃げの答えだろうか。

 その田崎本と、昨日の午前までに一気に読み終えたこの本、戦わせる必要あり。

シネキャピタル

シネキャピタル

 この本が提示するひとつの解決は、潜勢的労働力と現勢的労働との差異から剰余価値を生みだそうとするポストフォーディズムに対する、いっさいの潜勢力を現勢化することの拒否である。それは単に「外側に出る」ということではない。廣瀬はブレヒトとともに、「敵の武器を取る」ことを呼びかける。ポストフォーディズムが潜勢力という「不払い部分」の隠蔽に躍起になるなら、潜勢力は「支払われる非-労働」へと一気に逆転される可能性がある、と。そのためには、潜勢力と現勢力との、力能と行為とのあいだの「最小回路」を、個々の普通の労働者がもっていることを分節化しなくてはならない、と。

 どうやればそんなことが可能か。二通りのことを考えた。

 ひとつは、昨日のレクチャーで感じたこと。ポストフォーディズムディストピア的ヴィジョンを描くと、そこには何らかの「抵抗」が生まれる。本当に、それは全面化しているのか、「活動」の余地は本当にないのか、と。この「抵抗」こそが希望であると思う。

 もうひとつは、ベーシック・インカムの思想的可能性について。廣瀬が呼びかけるような、潜勢力の非-労働への反転を、より具体的に可能にするものがあるとすれば、それはベーシック・インカムだろう。潜勢力に対して無条件に支払われる賃金。多分に理念的ではあるが、それこそまさに統制理念としてのベーシック・インカムということは考えられないか。