事後的に思うこと

 インプロヴィゼーションが不得意、と書いたが、それは単に頭の回転が鈍い、もしくは口の回転が鈍いということで、あのような場では必ず、コメントに対する返答を組み立てている間に話題は次に進んでしまい、言うタイミングを逃す、ということが起きてしまう。まだまだ修行がたりません。

 アフォーマティヴと「反復、トラウマ、事後性」という問題系について重要な質問があり(またid:melanie-ji-wooさんからの促しもあり)、それに答えられなかったのでここで整理しておく。それは同時に、「afformativeは同時にa-formativeであり、これは言語の外部性や前−形成性を言祝ぐどこかで聞いた話ではないか」、というコメントへの応答にもなるかもしれない。かなり乱暴に枠組みだけ。

 反復は反復である以上、その行為は二度目以降の行為である。では、最初の行為を想定できるか。「最初の行為の想定」にあくまで反論したのがデリダであり、反復が最初の行為を事後的に措定することを見抜いたのがフロイトである。

 前者について、この文脈で参照されるべきはデリダの言語行為論批判だが、その批判を一言でまとめてしまえば、それは単独的な(非反復的な)出来事としての発話という想定の批判である。それを受けつぐのがバトラーのパフォーマティヴィティ理論である。

 それに対し、ハーマッハーは一見、「最初のパフォーマティヴ」を想定するかに見える。しかしポイントは、それが想定(assumption)ではなく、仮定(premise)だという点であるように思う。つまり、もし「最初のパフォーマティヴ」が存在すると仮定すれば、それは自己が自己かつ他者であり、現在が現在かつ未来であるような不可能な時間性を想定せざるを得ない。ハーマッハーはそのような瞬間の主体性の側面を「他自律」、言語論的な側面を「アフォーマティヴ」と名づけるのだが、時間性の側面には名をつけていないのでわたしは「未来性」と名づけた(というのは結果論だけど)。

 実のところ、デリダとハーマッハーはかなり近い。アフォーマティヴは「最初のパフォーマティヴ」が完遂されることをつねに先延ばしにしつつ、その前提となると述べられているのだから。

 その近さを示すためにも、フロイト的な反復の側面を導入しよう。やはり「最初のパフォーマティヴ」が存在するという「仮定」からスタートしてみる。そのようなパフォーマティヴはトラウマ的なものであって、それは名づけ得ぬ出来事である。だからこそ、それは事後的に「反復」になろうとする。つまり、それは「一度目」を事後的に呼び寄せ、それ自身に認識可能な意味をもたらそうとする。しかし、反復へと化してしまった時点で、その出来事は単独性を、「最初」性を失う。ほとんどトートロジーだが、このトートロジカルな構造こそが鍵であろう。ハーマッハーのいう(最初のではない単なる)パフォーマティヴ=ベンヤミンのいう政治的ストライキとは、このトートロジーの構造にからめとられてしまい、反復性を付与されてしまった「出来事」の謂いである。いや、以上のようなクロノロジカルな言い方は誤解を招くだろう。われわれに与えられているのは常に反復された出来事でしかないのだが、それが存在しうるためにはその前提=一回目の出来事が必要となる。そのような「一回目」はまさにデリダのいう「亡霊」である。

 それでは、デリダとハーマッハーの違いはなんなのか。デリダを読めばハーマッハーを読まなくてもいい、とはいえないとして、その理由はなにか。

 乱暴な話であるが、それはハーマッハーが反復という言葉を使っていない、という点に求められるような気がする。「最初のパフォーマティヴ」は仮定である、と述べたが、ハーマッハーのテクスチュアリティに寄り添うならば、最初のパフォーマティヴ=アフォーマティヴは遍在する「はず」なのである。定義上表象不可能であるにしても、アフォーマティヴはいまここに存在する「はず」なのである。そのような「仮定」を出発点とした場合と、反復というタームから出発した場合の、これはもう「力点」の違いというしかない差異こそが、ハーマッハーを読む意味だと思う。もちろん、アフォーマティヴの存在はそれこそ事後的にしか感知できない。しかし、いまここを出発点とした事後とは未来からみた現在のことであり、いまここにおいて起きているはずのアフォーマンスを、それこそ未来完了的=他自律的想像力でとらえること、これが未来性の思考なのだ。したがって、事後性は過去にまつわる問題ではない。それは「起こってしまった未来」からの呼びかけの問題なのである。

 というわけで「未来性」とアフォーマティヴを結びつけたことは、ハーマッハーの創造的読解として成功だったと「事後的」に思うわけだが。