老いとBI

 『Web英語青年』での連載、今回はわたしの同僚でもある越智博美さんによる「老いる」です。

 まず、これは読みこみ過ぎかもしれないが、キーワードを「老い」ではなく、「老いる」としたところがまずは重要でしょうか。つまり、状態ではなくプロセスとしてこれを見ること。もちろんプロセスとして見ることが一義的に「良い」ことという意味ではなく、清濁あわせもったものとして「老い」のプロセスを見ましょう、と。

 結論部分を読んで思ったのは(読んで、ではなくて以前にご本人と話したことでもあるが)、老後の生活保障の問題を考えるときにも、BIがやはり前景化される。今回はそれは北欧の税方式の老齢年金に示唆されている。

 常々言っているし多くの人が言っているが、BIは新自由主義と親和性が高い。要するに、中間的なもの、社会的なものぬきで、個人を市場から守るためのもっとも「エフィシェント」な方法なのだ。しかし、高齢者のケアという問題を考えるときに、BIでは決定的に「足りない」ことが分かる。そこには何らかの「社会的なもの」が必要とされる。お金渡しとけば生きていけるわけじゃない。

 いやだからといって、スウェーデンでの高齢者の自殺率なんかを持ちだして、「ほらみたことか、BIじゃだめじゃん」という話にしたいわけではなくて、ここでもやはり、BIという「思想」を持ちだした際にひきおこされる情動のあり方、一種の不安感が重要なんじゃないかと思う。

 かといって、上野千鶴子氏が言う「コモン」はまずいんじゃないか。いや、この提案そのものが本質的にまずいんじゃなく、まずはBI(的なもの)が実現され、その上で中間的なものは考えられるべきであって、まず「コモン」ありきでは順序としてまずい。同連載の「コミュニティ」で述べたように、それはネオリベそのものなので。もちろん上野氏は、介護保険制度が十分な状態を想定して、その上でそういう提案をしているのかもしれないが、その前提自体がまずは実現されないといけないんじゃないの、という話。

 いや、何を心配しているのかというと、「ケア」といった問題にともなわれがちな、心理学化なのです。経済的な問題を心理学的な問題にすりかえるということが、容易に起こるんじゃないかと。

 話はそれましたが、連載の最終段落は迫力。「ころり」の瞬間はだれも自己管理・マネジメントできないという点。もちろん、現在の「老いる」の言説は、その瞬間こそを自己管理の対象に含めようとしているわけだけど、そこに忍び込む不可能性に可能性(倫理)を見ようという指摘は迫力と示唆にあふれています。