Out of Apathy

 土曜日の二つの研究会、盛会でした。手前味噌ながら、アクチュアルなことをやっていればそうなる、ということでしょうか。

 まったく関係ない(そして関係の深い)告白をすると、私は昨日の都知事選、迷った末に「棄権」しました。石原と東国原の偽の「対立」のどちらに票を投じるのもいやだし、だからといって、それだけを理由に死に票になることが確実な第三の候補(ってワタミじゃないよ)に投じるのは、正しいのか。これが今回の(それはこれまでもそうだったが)悩みどころだった。悩んだ末に出した結論は、誰が当選しようとも、彼は私を代表はしていない、ということ。いいかえれば、この一票を誰かに投じて代表を選ぶことで、私が見えない社会と「つながる」とは、どうしても信じられないということ。棄権することは消極的な行為ではなく、むしろ選挙、さらには現在の代表制によって表象される社会とはべつの社会とのつながりを見いだすための行動になりうるのではないか。今回の結果によって、震災後の「チャリティとルサンチマンの政治」は猖獗を極めるだろう。つまり単純な話、東北は東京の選択を許さないだろう。しかしそのような感情が社会とのつながりであるとしたら、今回の選挙結果がどうあろうとも、そのようなものは社会の名に値しない。

 おそらく私は、客観的に見れば「投票率を下げて石原の四選を容易にした無関心層」にカテゴライズされてしまうのだろう。しかし、そのような価値評定が前提としているのは、社会と個人のつながりは自明なものとして存在しており、投票はそれを表象する、つまり投票に行くことがデフォルトである、ということだろう。このような前提こそが、決定的にまずい。私は、投票しなかった人びとの全員が、私のように積極的な選択で棄権したと主張したいわけではない(し、投票した人を非難しようなどというつもりもさらさらない)。その多くは本当に無関心かもしれない。しかしその無関心の中に、一抹の「やましさ」が存在しないはずはない、と、それだけは信じたい。やましさとは、社会と自分がつながっていないこと、またはつながっていないことをわかっている自分がいることが、心のどこかにある引っかかりとして感じとられることである。本エントリーのタイトルはE. P. トムソンが編集した本のタイトルであるが、これは二つの意味に読める。「無関心をこえて」が意図された意味だろうが、これは「無関心という動機から(何かをする)」とも読めるのである。