かけがえのない私

 「私」は分割可能であろうか。生産ラインでベルトコンベアに流されるパン生地をひっくり返すこの腕、キーボードをたたくこの指、営業先へと靴をすり減らすこの足、商品をバラ色に染めるレトリックを繰り出すこの唇、顧客にもういちど店に足を運んでもらうためのスマイルをはりつけたこの顔……。これらは、それ自体商品として切り取り、商品棚に陳列して売ることのできるものであるか。

 否。私という個人はかけがえのないものである。この腕、この指、この足、この唇、この顔……をすべて足し算しても「私」にはたどりつけない。そこには労働する私以上の私がある。

 しかし、である。現代の資本主義において、というよりむしろ、労働そのものの本性において、上記のような身体部位による「分業」はたんなる言語上のまやかしでしかない。この腕、この足、この唇……は「私以上の私」と分割不可能な形で労働の場に動員されている。労働のパフォーマンスを行うためには、「私以上の私」を涵養し、それを動員しなければならない。現勢的「労働」を行うためには潜勢的「労働力」が不可欠なのである。「私以上の私」も含めたすべての「私」による「協業」を要請するのである。

 しかし、賃金は、現勢的労働にしか、言語上のまやかしである「この腕」にしか、支払われない。資本は、現勢力と現勢力の差異を搾取することによって増殖する。「私以上の私」を剰余価値として収奪することによって。

 などということを、昨日夜からついに発熱し、本日の狼協会例会は例会委員であるにもかかわらず欠席しながら、とはいえ本くらいは読める、という状態で開いたこの本を読みながら思ったわけであります。関係諸氏には陳謝。明日の共同レクチャーは這ってでも行きます。

シネキャピタル

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