亡びるね

 よい批評は多かれ少なかれ誇大妄想的なところがあると思う。もしくは誇大妄想と紙一重のところにこそよい批評はあるというか。しかし、この本はその紙一重のどちら側なのか。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 なにかが亡びるという語法は、とくに言語や国に関して使われる際に、誇大妄想の引き金となりやすいわけだが、たとえば『三四郎』の広田先生の「亡びるね」という言葉は、そのような誇大妄想に対する最上の「冷や水」なのである。

 その広田先生の台詞をエピグラフとする、話題の本書の最大の問題点を集約しているのは、「亡びるね」という言葉に込められた現状・歴史認識アイロニーの融合を実のところ著者はまったく理解しておらず、単なる「憂国」の言葉(または「普遍語」にアクセスできる広田先生の「世界性」を証明する言葉)としかとっていないように思える点だろうか。「自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証し」という結びの言葉に対しては、「自分が死にゆくのを座視できるのが、人間の精神の証し」という言葉でも贈りかえしたい。または、こんなやりとりを贈りかえしたい。

 「日本語は亡びるかもしれませんよ。」

 「ああ、うん。亡びるね。」

 といいつつ、いくつかの各論には賛成できたりして。英語教育の話など。学校で教えるなら書き言葉を教えればいいのであって、パーティー・イングリッシュやりたいなら学校の外で、という主張自体には賛成だし、二重言語者の歴史的重要性についても、水村はその苦難ばかりを強調するのに対して、二つ以上の言語で考えざるを得ないという苦境の絶対的利点を強調したいという保留はつけつつ、頷いて読む部分はあった。そういう各論に賛成の部分はあっても、総論には説得されず。だって、言語は「亡び」ませんもの。使われなくなることはあっても。それ自体の何が悪いのか、そこがさっぱり分からない。それとも、水村の一番の憂慮は、日本語が「亡びる」ことそれ自体よりは、今自分が書いているものが(漱石の書いた漢文のように)、自分の死後に読まれる可能性が消滅することだろうか。