多形倒錯としての裁判員制度

 いきなり全速力で各種業務にまみれながらも、週末の研究会の予習。

Why War?: Psychoanalysis, Politics and the Return to Melanie Klein (Bucknell Lectures in Literary Theory)

Why War?: Psychoanalysis, Politics and the Return to Melanie Klein (Bucknell Lectures in Literary Theory)

 お題になっている第二章。これは、サッチャリズムへの時局的介入という以上の、アクチュアリティのポテンシャリティ(?)に満ちあふれた文章だ。例によってあまり前もって書きすぎないように、とは思うが、ひとことでまとめてしまえばサッチャーがいかにして「イデオロギーの崇高な対象」になりえたのか、ということを、イギリスにおいて死刑に処せられた最後の女性、Ruth Ellis(映画にもなっている)との対照で照らしだす。

 国家による合法的=合理的/理性的暴力の極限形態としての死刑を復活させようとしたサッチャーと、非常に「理性的」に(つまり、自分の意図を客観的に認識しつつ)殺人という暴力を実行したルース・エリスが、「暴力」という名のコインの裏表である、このことは、例えば現在の日本における裁判員制度の問題にも直結する。裁判員制度が日本版ネオリベ、日本版レーガンサッチャー体制である小泉政権において胚胎したということもあるが、裁判員制度とは、「国民」を国家暴力に「連座」させんとする制度であり、国家の理性の極限としての暴力へと、「国民」を巻きこもうとする制度であってみれば、それは「国家の理性」と「個人の理性」を、暴力という平面上で同調させんとする試みであるわけだ。

 ところで、「イデオロギーの崇高な対象としてのサッチャー」というフレーズはオリジナルではなくて、

新自由主義は文学を変えたか―サッチャー以後のイギリス (比較経済研究所研究シリーズ)

新自由主義は文学を変えたか―サッチャー以後のイギリス (比較経済研究所研究シリーズ)

この本の中の、滝沢玄によるステュアート・ホール論から借りてきたのだが。サッチャリズムへの単なる「対抗」は、イデオロギー批判としては当然のことながら不十分で、そのような「対抗」には、イデオロギーというものが「誰も信じていないにもかかわらず機能する」という厄介な側面をもっていることが看過されており、ホールは(ギルロイといった次の世代とは違って)その隘路を切り抜けようと言説をつむいだ、ということ。

 ところで、ローズ本を読みながらこの本がなぜか想起される。

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

 想起といっても最近読んだんですが、その細部に属する部分が強いインパクトを残している。「多形倒錯」についての一節。多形倒錯はフロイトにおける幼児性愛のキーワードだが、十川はこれを「多形性」と「倒錯性」に分割して驚くべき(驚いているのは単なる勉強不足だが)定義をする。この二つは欲動(ドライヴ)の流れに関する対立概念であって、多形性が、欲動の流れの回路が柔軟性・可塑性をそなえた状態であるならば、倒錯性とは(この言葉の普通の意味とは関係なく)欲動の流れがある形に固定してしまった状態だ、と。この定義の政治的含意は広く深い。サッチャリズムは、権威主義保守主義イデオロギー自由主義的経済政策を共存させたわけだが、これはまさに「多形」(=自由主義)と「倒錯」(=純粋なる保守主義)の共存だったわけである。多形性を言祝ぐポストモダン思想が、新自由主義との共犯関係に陥ってしまうのはそういうわけだ。また、裁判員制度に含意される自由主義(=罪状を決定できる/すべき個人)と共同体主義(=処罰への参加)の共存も、「多形倒錯」なわけだ。