断片化された読書

 今度、大学の紀要に載せる座談会に向けて、読みなおしも含めていろいろと頁を開いては閉じる。

カルチュラル・ターン

カルチュラル・ターン

  • 作者: フレドリックジェイムスン,Fredric Jameson,合庭惇,秦邦生,河野真太郎
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本
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アメリカ帝国主義と金融 (こぶしフォーラム)

アメリカ帝国主義と金融 (こぶしフォーラム)

  • 作者: レオパニッチ,サムギンディン,Leo Panitch,Sam Gindin,渡辺雅男,小倉将志郎
  • 出版社/メーカー: こぶし書房
  • 発売日: 2005/10
  • メディア: 単行本
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石油の世紀―支配者たちの興亡〈上〉

石油の世紀―支配者たちの興亡〈上〉

石油の世紀―支配者たちの興亡〈下〉

石油の世紀―支配者たちの興亡〈下〉

 イングリッシュネス(ナショナル・カルチャー)の変遷と、金融資本・後期資本主義といったところを広汎に考えたいのだが、EstyとかKallineyを批判的に乗り越えるのに、やはりジェイムソンは重要なのであろう。たとえば、私も訳に加わった『カルチュラル・ターン』の「文化と金融資本」では、帝国主義モダニズム、後期資本主義(金融資本主義)=ポストモダニズムとされており、前者が文化的イメージの自律化の段階であるとすれば、後者はそれの「完全なる」自律化のフェーズとされている。

 そこでうたがうのは、そのような文化的イメージの完全自律化というのは、金融資本主義の「全面化」というのと同じくらい、イデオロギー的ヴィジョンなのではないかということ。そこからは「生産」は完全に抹消され、金融資本が金融資本を生み出すようなマジックが行われる。しかし、生産は本当に消滅したのか。生産の消滅というのは、金融帝国主義イデオロギーの支配的ヴィジョンにすぎないだろう。*1

 それとは別に、ジェイムソンがそのようなポストモダン的テクストの典型として論じているのが、デレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』という、サッチャリズム期のイングリッシュネスの問題を語る際に重要な作品であることだろうか。ジェイムソンの議論に従えば、『ラスト・オブ・イングランド』はサッチャリズムナショナリストイデオロギーを批判しているどころか、そのイデオロギーが相補していた金融資本の自由化という動きの文化的相関物だということになるのだから。

 それとはまた別に、「石油」問題が気になっている。20世紀の金融資本主義にとって石油という商品=貨幣は、(関廣野によれば)金融資本主義が崩壊せずに成長をしつづけるための魔法の資源だった。『ハワーズ・エンド』から『日の名残』へ、という文学作品では、自動車への転換やキプロス、(不在の)スエズ戦争という形で、ミクロ・マクロ双方の水準で石油がcognitive mappingの核になっている。というわけで、先日O田さんに勧められて読み始めた上記の本だが、非常に面白そう。

*1:要するに、生産は第三世界へと「アウトソーシング」されるのだが、パニッチらが述べるように、第三世界の貿易黒字は最終的にアメリカへと還流する仕組みになっているのだとすれば、ここではやはりウィリアムズの『田舎と都会』が重要になる。ウィリアムズは、エステイト詩を分析する際に、生産にあずかる田舎と、その生産(労働)を抹消しつつ田舎を象徴するエステイトから、資本がロンドンへと流れ込み、それがまた田舎のエステイトへと還流することを述べている。問題は、ウィリアムズの論じる「都会と田舎」においては、そのような資本の還流がある程度記述可能(わかる社会)であったのに対して、今日のグローバル状況においてそれが文化的表象を得ていないことかもしれない。現在、ポストコロニアル文学のありうる姿としては、そうすると、第三世界での生産の、すくなくとも痕跡だけでも書き込まれた文学ではないか、とほとんど妄想だが思う。