世界/セカイ

 『Web英語青年』のキーワード連載、三浦玲一氏による「世界(セカイ)」です。

 氏の「社会」と「コミュニティ」の区分については、(直接)文句を言ってきたのだが、今回のこれを読んで納得のいく部分が。つまり、新自由主義サッチャー)が社会を否定したとき、その「社会」という言葉には「国家」が抜きがたくとりついていた、というより、市場の自由か国家の統制か、という二項対立をイデオロギー的閉域として作り出す際に、新自由主義は「社会」に「国家」をとりつかせたのである。そのような社会が否定されるとき、残る集団性はコミュニティしかなくなる(家族もあるけど)。そのようなコミュニティはやはり、「社会=国家とは違う私的なもの」としてしか想像されなくなる。そういうふうに意味を限定されたコミュニティが、問題なわけだ。

 このような限定性を否定するには、上記二項対立を超えることが必要である、というはずっと主張してきたことだが、もうひとつ、「公共性を担いうる集団性のシステムとして、国家はいまのところ最上である」という、袋だたきに遭いそうなテーゼもどこかで手放したくない。いや、そう言えないのが新自由主義なので、循環論法になってしまうのだが。

 ネーション、ステイト、ソサエティ、コミュニティといったキーワードが先鋭に絡み合う、ウェールズ的状況はやはりこの問題を考える上で重要だ、との確信を強める。