『闇の奥』についてのメモ

昨日は職場の主催のシンポジウムで帝国主義植民地主義をめぐる5時間+懇親会。大変に濃密でした。

その中で、中井亜佐子さんが『闇の奥』と採取/採掘主義(extractivism)についてお話をされていて、最近考えていたことにとても強く響いたのでメモ。

中井さんの議論をここに正確に再構成はできない/しないですが、お話を伺いながら、最近ナンシー・フレイザーの最新刊などを読みながら考えてきたことがすっきり整理されたような気がしました(気のせいでなければいいですが)。

採取/採掘主義というのは、大まかに整理してしまうと、マルクス主義的な「搾取(exploitation)」に対する、原初的蓄積が現在も進行中であるというローザ・ルクセンブルク、デイヴィッド・ハーヴィー、ハートとネグリフレイザーが大きくは共有している仮説における「収奪(expropriation)」のこと。自然の収奪を考えれば一番分かりやすいですが、資本主義はその内部で完結することはできず、常に外部からの暴力的な収奪が必要でそれに依存している、ということです。自然以外には植民地、女性などがその収奪の対象ということになります。

今回よく分かったのは(そういう議論は中井さんはしていなかったと思うのですが)、搾取と収奪の違いは、「再生産」があるかどうかということでしょう。搾取は(労働力の)再生産を制度化するのに対して、純然たる収奪は再生産のことは考えない。

そう考えると、搾取と収奪の違いというのは、それほど明確ではなくなるかもしれません。植民地のことを考えると、再生産が完全に度外視されることはじつはあまりない。

それで、昨日は植民地主義の話で、現在パレスチナで進行中のことが強く意識されながら議論が進んで行ったのですが、疑問だったのは、イスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺は、いったい、収奪であれ搾取であれ、植民地主義と言えるのかどうかということでした。

収奪であれ搾取であれ、それは植民地主義に(同意するかどうかは別として)何らかの経済的合理性を見いだそうとする議論です。現在進行中のものに限らず、ホロコーストにはいったいどのような経済的合理性があるのか。この辺で帝国主義の帰結として全体主義を考えるアーレントなど持ち出す必要もあるのかもしれませんが、私にはそこにどうしても合理性があるようには思えません。

『闇の奥』はそれを描いた作品です。それはまずはベルギー領コンゴでの「収奪(採取主義)」を描きます。象牙が取り尽くされ、像の一頭ももはや登場しないことはそれを物語っているでしょう。ですがこの小説はさらにその先に向かいます。収奪の先にもはや経済的合理性のない狂乱が待ち受けている。クルツのノートのExterminate all the brutesという言葉は、それを表現しています。その意味で『闇の奥』はその半世紀後に起きたことをみごとに予見していると読むことができ、また現在起きていることも予見していたと読むことができそうです。

この「絶滅」は、イスラエルパレスチナの病院、学校、図書館などを狙って破壊していることを考えると、重みを増します。再生産のための制度を積極的に破壊する。今回、鵜飼哲さんがcolonyというのはラテン語の語源経由でcultureにつながっているという指摘をされてはっとしました。確かにcolonyの語源のラテン後colereはcultivateの意味であり、そこからcultureが生まれました。イスラエルが行っていることはcolonyの破壊であり、それが同時にcultureと、それが担う再生産の徹底的な破壊である。それはもはや収奪でさえない(けれども、収奪の限界の向こう側にある)。

このような野蛮に対しては、文化と再生産をいかに守るかということがやはり鍵になりそうです。それも、搾取のための再生産ではないそれです。