超クール

 「クール・ジャパン」って(笑)。しかしまあ、サッチャー小泉からブレア鳩山へ、という物語が本当にパスティーシュじゃないかと思わせるような。こういうの、知恵袋がいるのかなあ。いたとしても底の浅い袋だが。

 『英語青年』の「文章読本」。ウィリアムズと『田舎と都会』の肝が、経験的なものと超越論的なものの相克であり、structure of feelingといういびつな(「醜悪な」)表現にそれがこめられているというのは、正解。そしてウィリアムズの問いが、田舎と都会という対立そのものでもなければ、その対立の脱構築でもなく、対立を生産しているもの(歴史、近代、資本主義)であるという点も正解。

 ただ、自戒もこめてだが、こういった「正解」は不思議とウィリアムズという人を裏切ってしまうところがある。以前のウィリアムズ特集で私が「いかにして、ウィリアムズについてウィリアムズ的に書くか」といって書いた(書こうとした)のはそういうわけでして。結局のところ、ここで今私が書いているような書きぶりではダメで、要はウィリアムズの大義と戦略を、ウィリアムズと「ともに考える」という姿勢抜きには、ウィリアムズ読んでも白々しいことになってしまう。「メタレベルに安住」(24頁)してるように見えてしまう(言語の物質性に踏みとどまるという挙措もしくは戦略も、文脈によってはメタもいいところなわけ)。だから、『田舎と都会』読むなら、否応もなく新自由主義(現在)を考えざるを得ないということですよ。たとえば。