教授、ご乱心

 先日の東京行きの際、最終日は書いたように昼過ぎから飲み始めたのだが、場所は丸の内であった。昼から飲める場所といえばホテルのバーが穴場ということで、東京駅のステーションホテルに行こうとしたら休業中。その時は事情が飲み込めなかったが、去年から改装のため休業しており、2011年に再開するとのこと。

 ところでこのステーションホテル、英文学者なら想起するのがウィリアム・エンプソンではなかろうか。彼が東京に来た最初の夜、彼は酒を買いに(かどうかは知らないが)このステーションホテルを抜け出し、帰ってきた時にはすでにホテルの営業は終わっていた。しようがないのでエンプソンは、東京駅の開いていた窓から忍び込もうとする。足からよいしょと入った窓の付近には守衛がいて、にょきっと生えてきた両足に驚愕したそうな。で、強盗と間違われて御用。その際、防火用のバケツの上に落ちて水浸しになったとか。翌日には新聞ネタにもなったそうである。

 そんな壊れたエンプソン先生。その辺の事情は、最近届いた、分厚い二巻本の伝記にもちゃんと書いてありました。

William Empson: Among The Mandarins

William Empson: Among The Mandarins

William Empson: Against the Christians

William Empson: Against the Christians

 以前触れたパストラル論も届いたので、早速序章の「プロレタリア文学」を読んでみる。

Some Versions of Pastoral (New Directions Paperbook ; 92)

Some Versions of Pastoral (New Directions Paperbook ; 92)

 うう、分からない。教養が足りないのか、読解力がないのか、単に頭が悪いのか、それともその全てか。分からん。

 ひとつ言えることは、「プロレタリア文学=パストラル」というテーゼは、「社会主義リアリズム路線」に対する明かな反論であること。(ちなみに、1934年のソヴィエト作家会議への言及は、『新英米文学』に初出の際にはなかったはず。)

 ただし、単なるリベラル・ヒューマニスト的な「文学と政治は関係ない」という主張ではないどころか、エンプソン先生にとってみれば、また彼のパストラルの定義からすれば(それがまだよく分からないというか言語化できないのだが)文学は徹頭徹尾政治的である。ただ、彼が批判するのは機械的因果論や、たんなるプロパガンダであり、パストラルという伝統的形式にプロレタリア文学のあるべき姿を見るのは、かなり洗練されたイデオロギー論の帰結である気がする。

 あとは疎外論ユートピアの問題だろうか。部分的には、パストラルは疎外された人間にとっての逃げ場みないな分かりやすい話もしているが、その点はどうなのか。とにかく残りも読み、さらにあと十回くらい読み、さらに時代にコンテクスト化していけば(この作業はエンプソンを読む上で不可欠であると直感)理解できるのか、できないのか。