レイト・モダニズム

 ここのところすっかり読書日記と化してますが。もっとくだらないことも書きたいんだけど。

 本題に入る前に、今日は某所で大江健三郎氏の講演会があったそうで、聞きに行った友人の話では、知識人とは何かという主題について、「知識人とは正確に引用をする人。ゆえに石原慎太郎は知識人ではない」と言っていたそうである。なるほど。

Modernism and World War II

Modernism and World War II

 どうも流行っているようです。何がかというと、モダニズムの「終わり」という問題と、モダニズムと第二次大戦との関係、こういったあたりの話が。この本はさらに、複数の作家(ウルフ、レベッカ・ウェスト、エリオット、ヘンリー・グリーン、イヴリン・ウォー)を渡り歩きながらそれを論じるという点も流行りな感じ。

 とりあえず序章とウルフの章を読む。Between the Actsとパストラル、イングリッシュネスという話題。この作品はThree Guineasで表明されている政治的意見からは全くの転向をしているんじゃないの? というテーゼ自体には賛成するし、Jed Estyの例のやつなども含め、このような再読の気運は納得できるものの、どうもしっくりこない。

 原因は、この本が文学作品と政治(といってもせまい意味の、国際政治などという時の意味の政治)と直結させようとするからかもしれない。などと言うとリベラル・ヒューマニスト呼ばわりされそうだが、そういうことではなく、作品読解の最終審級が「イデオロギー素」、というか、平たく言って「政治的意見」でいいのかしらん、ということである。

 文学研究の流れを考えるとき、今プロパガンダの問題にフォーカスしたり、イデオロギー素に還元するような批評が出てくるのは自然かもしれない。つまり、「個人的なことは政治的なこと」というテーゼがあるどん詰まりまで行って、一方で文学作品の(モダニズム的な)自律性およびラディカリズムはおろか、「相対的自律性」を言うことも難しくなり、さらに一方では歴史的研究がさかんになる。そこで、現在の読解の前提となっているイデオロギー素を再考するというある意味地味な作業が再燃する。この本の場合、Three Guineasからの「転向」は、「国なんていらない」とうそぶいていたウルフが、空襲でロンドンの家を失い、ユダヤ系の夫レナードと自殺まで考え、結局反戦をつらぬけなかったという伝記的要素に還元されている。

 あまり、おもしろいとは言えない。

 ただ、闇の奥とカントリー・ハウスというトポスの問題という、気になっているテーマに関しては有用な指摘があった。あと、扱われている「第二世代モダニスト」が、要は「ポスト不労所得階級」であるという指摘、重要だろう。