未来派飛行士

Poetry of the Revolution: Marx, Manifestos, And the Avant-gardes (Translation/transnation)

Poetry of the Revolution: Marx, Manifestos, And the Avant-gardes (Translation/transnation)

 ちびちびと読み進めているこの本。「マニフェスト」を広い意味、つまり政治的マニフェストであると同時に芸術の一ジャンルとして論じるという意匠だけで、もう一本取られたという感じ。必然的に、アヴァンギャルドも、狭い芸術上のアヴァンギャルドの問題ではなく、その最も広い意味(政治的=文化的=芸術的前衛)での問題となる。

 途中で触れられているFuturist Aerial Theatreというものが気になって仕方がなくなり、The Darama Review, Vol. 15, No. 1 (Autumn, 1970)に載っている、Fedele Azari, 'Futurist Aerial Theatre: Flight as an Artistic Expression of States of Mind' (1919)を読む。

 Fedele Azari自身は空軍の飛行士にして未来派の芸術家であり、「未来派飛行士」を自称する。1918年春にミラノ上空で「未来派空劇」のパフォーマンスを行ったそうである。

 このマニフェストによると、「未来派空劇」は、ターンや宙返り、急降下などの動き、エンジン音の「演奏」、スモーク、機体へのペインティングなどで、操縦士の'states of mind'を表現するらしい。

 調べていると、2005年にロンドンで'Futurist Skies: Italian Aeropainting'という展覧会があった模様。中古のカタログを注文。下の画像は、そのFedele Azariによる作品Perspectives in Flight(1926)。

 なにをこんなに気にしているかというと、『ダロウェイ夫人』その他ウルフ作品における飛行機の形象と、なんらか関係がないのかしらということです。関係なくても、面白い題材ではある。

 昨日のLevensonのように、Modernist sublimeを脱政治化(というか、たんなる記述)する向きがある一方で、例えば飛行機というテクノロジーがもたらすsublime未来派的なヤバさが、ウルフの飛行機におけるsublimeにも確実にあるわけで、かといってそれを(反/半)ファシズムというイデオロギー素に還元することなく見ていくのに、(実証的つながりはなくとも)これをぶつけてみるのは有効かもしれない。

 あと、メモ。Azariは未来派空劇の利点を、(空でやるゆえに)万人が、貧乏人も、観ることができることだとしていて、その点も『ダロウェイ夫人』に通じている。(ロンドンの街路のあらゆる階級の人物の視点が集まるので。)階級の想像的な解消のモメントとしての航空パフォーマンス。