俗流の効用

 一山越えたらまた一山。10月のウェールズに向けて原稿書きを開始。英語で読むことを前提に書くのは、日本語での場合とはまったく違う「構え」にせざるを得ないので、『英語青年』に載せたウィリアムズ論が下敷きとはいえ、かなり苦労しそうな予感。間に合うだろうか。

 とかいいつつ、ヴィルノの読書会でも話題になっていたジェイムソンが気になって再読。というか、自分も翻訳に加わった本を再読して、初めて読んだみたいな印象を抱くのはどうなんだろう。

カルチュラル・ターン

カルチュラル・ターン

  • 作者: フレドリックジェイムスン,Fredric Jameson,合庭惇,秦邦生,河野真太郎
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本
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 第7章「文化と金融資本」。現状における「俗流マルクス主義の効用」をほのめかしつつ、ジョヴァンニ・アリギ『長い20世紀』(翻訳あります。下記。積ん読になってるけど、分厚いんだよな)を導きの糸に、金融資本主義と文化の問題を論じる。リアリズム・モダニズムポストモダニズムと、従来の資本主義と新たな金融資本主義との関係を問題とするわけだが、まずモダニズムと金融資本主義の関係についてはまさにヴィルノが言うような「反転された革命」の関係にあると指摘される。

しかし現在、時おり好んでポストフォード主義と呼ばれる時代では、この特殊な論理〔モダニズムの「自律化」と「異化」の論理〕はもはや通用しないようだ。文化の領域においても、近代では、醜い、不調和だ、怪しからぬ、見苦しい、または胸が悪くなる、などと思われた抽象化形式が、すでに文化的消費の本流……に入っており、もはや誰にも衝撃を与えないのと同様である。むしろわたしたちの今日の商品生産と消費のシステム全体は、それら、より古いかつては反社会的であったモダニズムの諸形式に基づいているのだ。(207頁)

 ああ、これ、すでに出したウルフ×前衛論文で引用できたな……。

 そして、論文全体のプロジェクトはこう。

さてわたしは、この金融資本の新たな論理──その根本的に新しい抽象化形式、特にモダニズムの抽象化自体とはするどく識別されるべきもの──が、今日の文化的生産、あるいはいわゆるポストモダニティにおいて作用するさまを観察しうる手法について、いくらか推測を提示したい。求められているのは、新たな脱領域化したポストモダン的内容の古いモダニズムの自律化との関係と、グローバルな金融資本のより古い銀行業務や信用貸しとの関係とが、または八〇年代の株式市場の熱狂と一九二九年の大恐慌との関係とが、同じであるような抽象化の記述である。(213頁)

 そしてこの後、主に映画(といっても、「予告編」が作品の代替物と化してしまうような状況)を主題としつつ、これらの関係を論じるわけだが、ここで注目したいのは、モダニズムポストモダニズムと、古い資本主義/新しい金融資本主義との関係が相同的であるとして、唯物論的にはいったいどのような関係なのか、最後まで明らかにはされないということ。反映論かよ、と突っ込みたくなる衝動にかられるが、『政治的無意識』の著者がそこに無意識であるはずはない。いやむしろ、『政治的無意識』からの状況の変化が、「俗流」を有効にしつつあるのなら、ジェイムソンはそれを意識的に実践しているのか。

 ところであとはメモ(ここまでもメモだけど)。ヴィルノ的ポストフォーディズムに関連して、レイモンド・ウィリアムズは「言語の共同体」や「メディアの共同体」ということを繰り返し述べている。(前者は『イギリス小説』、後者は「メトロポリス的知覚」論文。)いずれも、モダニズム以降に芸術家たちに残された公共圏をそう名付けているのだが、ここにもまさに、モダニズムの残滓が反転していくさまが見てとれるかもしれない。

長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜

長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜

  • 作者: ジョヴァンニ・アリギ,土佐弘之,柄谷利恵子,境井孝行,永田尚見
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2009/01/30
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