マサオ・ミヨシの「捏造」

抵抗の場へ―あらゆる境界を越えるために

抵抗の場へ―あらゆる境界を越えるために

 届いて、とりあえず問題の箇所に目を通す。

 何かというと、私がマサオ・ミヨシ氏に一度だけ会った、その時のことが書いてあるというのだ。私が会ったというより、私も含めた集団が会ったのだが。

 174頁から。日本滞在のついでに東大に電話したら助手が招待してくれて、30人ほどの大学院生と助教授に会ったが、はっきりいって失望した。言うことはアメリカの大学院生と同じ、または翻訳で、地理的・歴史的特殊性のない、批判性のない話ばかりだった、という話。

 私はその失望された大学院生の一人だったわけ。かれこれ10年くらい前の話なので私の記憶も定かではないが、この話、捏造だらけ。

 まず、彼は日本に滞在中にふと思い立って東大に連絡したと言っているが、そんなことはない。かなり前の段階で当時の助手さんに連絡があり、助手さんはミヨシ氏の著作や論文を用意してみんなで読書会するなどの準備までしていたと記憶している。

 第二に、その場には30人も人間は集まらなかった。せいぜい10人。

 第三に、ミヨシ氏はその場に「老教授は来なかった」ことをことさら強調している。実情は、そもそも東大の教員はそこに一人たりとも呼ばれてはいなかった(彼が来ることも知らなかった)のであり、いなかったのは当たり前である。だから、助教授がいたというのは嘘。それどころか、なぜ呼ばれなかったかというと、大学院生など若い人たちと話がしたい、というのは氏自身の希望だったのである。

 残るはそこで語られた内容だが、これは明白な「捏造」を証明するのは難しいものの、とても同じ場を共有した話には聞こえない。実のところそこに来ていた大学院生には英文学だけではなく社会学の学生などもいて、彼の物語(輸入学問に染まった主体性のない英文学の学生たち)におさまらない真剣なやりとりが交わされたように記憶しているし、彼が「苛立ちを隠せなかった」様子は記憶にはない(むしろ上機嫌に見えた。今思えば、自分の物語を証明できる材料にありつけたゆえの上機嫌だったのか)。なによりも、そこに集まった知性は、英文学の歴史性など分かり切った上で仕事をしている人たちであったことは、私が保証する(私の保証など意味がないと言われればそれまでだが)。

 何にせよ、ここで加えられている記憶の捏造は、一定の方向性をもってなされている。まず、ふと思い立って連絡したというくだりは、彼が、別にやる気満々で東大に赴いたわけではないということを強調するため。人数が三倍になっているのは、何気なく行ってみたら注目されてびっくり、というポーズ。老教授たちはこなかったというのはもちろん、「やつらはビビッて来なかった」と言いたいのだ。「内にこもって批判性のない日本の英文学」という彼の批判というよりは自己肯定の物語が先にあって、そのひな形にはめ込まれる形で記憶がゆがめられているのである。さらには、そもそも氏がそのような先入見を持ってあの場に臨んだという可能性も高く、そうすると、こちらとしては「ダシにされた」との感慨を抱かざるを得ない。

 私はごく個人的に憤慨している。なにより、当時忙しい時間をぬってあのような場を実現させた助手さんが不憫でならない。まだ残りの部分は読んでないし読むかどうかも分からないが、たった1ページにこれだけの捏造が含まれていることは伝えておきたい。