理論の奇妙な死

Modernism and Theory: A Critical Debate

Modernism and Theory: A Critical Debate

 本日の今出川方面作戦の標的(誰かのメタファーがうつってる)。

 タイトルがあまりにもストレートで警戒していたが、この本はちょっと重要かもしれない。

 モダニズム研究(そして広くは英米文学研究)が「理論」の時代から一転、歴史主義的転回と空間論的転回を遂げ、ある意味鬼の首を取ったように「理論の死」が口にされる状況への介入を目論む一冊。

 とはいえ、単に「理論再び」ということではない。イントロダクションでは、モダニズム文学と「理論」の連続性が強調される。連続性というよりも、モダニズムと理論は同一表面上にあるということだ。どのような同一表面かといえば、啓蒙主義以来の、「それ自身へのクリティークをその構成的部分とするモダニティ」という表面である。

 ポストモダニズムを「ポスト」モダニズムとしてモダンを単に忘却することや、「理論の死」を叫ぶことによって排除される視点とは、モダニズムと理論の「同一性」である。逆に言えば本来、モダニズム文学のテクストを読むことと「理論」のテクストを読むことのあいだに、差異はない。ジョイスデリダを読むこと、ロレンスとドゥルーズを読むこと、ウルフとラカンを読むことのあいだに、差異はない。そのような前提で、昨今の「複数のモダニズム」といった議論はあえて無視して正典的なモダニズムのテクストと「理論」のテクストを同じ地位で読み、それをモダニティの問題として歴史化する、この総論には大いに同意。(思えば某狼協会で数年前にオーガナイズしたシンポジウムの趣旨は、まさにそれであった。モダニズムと「理論」の同時代性。)

 各論については「ウルフ・ベンヤミンアガンベン」の章だけ読んだが、これはちょっと残念な出来。三者の共通性を指摘することはある意味簡単で、特にウルフとベンヤミンに共通性があること自体は「当たり前」と思える水準のことである。問うべきなのはそのような「当たり前」が可能な歴史性とは何か、ということなのだが、そこへの踏み込みは甘い、というか、ない。そのせいで一昔前に量産された「理論を文学テクストに応用しました」風の論文に堕してしまっている感があり。だが、本全体が向いている方向には大いに頷くところ。ジェイムソンの少々投げやりな後記には苦笑するが。