中井亜佐子『エドワード・サイード──ある批評家の残響』(書誌侃侃房、2024)

 

著者とのトークイベントが控えているので、詳しくはその時に話したいとは思いますが、一周目を読了して、これは早く多くの人にお勧めしたくてちょっと書いておきます。

没後20年のサイードパレスチナ情勢が野蛮なことになっている今、再び亡霊のようにその名が人びとの口にのぼるサイード。私も「サイードが存命だったら何を言っただろうか」と考えたことは確かです。

本書はそのサイードを「批評家」として読みます。これは当たり前というかトートロジーで、サイードはずっと批評家だったのですが、おそらく改めて確認されなければならないのは「批評」「批評家」とは何か、ということでしょう。本書はその広い問いへの答えにもなっています。

本論は三章立てで比較的にコンパクトなこの本は、コンラッド(文学)、フーコー(哲学)、ウィリアムズ(社会思想)がどのようにサイードへと「旅した」かという仕立てになっています。(もちろん、「旅する理論」は本書の鍵テクストです。)

個人的にはやはりウィリアムズの章が気になるところで、サイードが実証的にウィリアムズの著作に影響を受けていたということをちゃんと書いてくださったということも重要なのですが、私としてはやはり、ウィリアムズのコミュニティ論をサイードは自分の文脈で十全に受け取って肯定することはできなかったわけで、その齟齬こそが重要なのかな、と思ったりしました。ただ「旅する」とは常にそういうもので、生産的な齟齬の存在が重要です。(だから、中井さんらしい独特の言い回しで述べられるように、読んでいる批評家と友達になれなくてもいいし、ましてや一体化しようとするのは間違っている。)

本書の一つの通奏低音は、リタ・フェルスキらの言う「ポストクリティーク」との対話です。これまた個人的にはポストクリティークという言葉で問題にされていることなんて、ずっと「イデオロギー批評」やカルチュラル・スタディーズが問題にしてきたことなので、いまさら……という気がしているのですが中井さんは私よりも真摯にポストクリティーク論に正面から取り組んで「クリティーク」します。「意図」という困難な主題はそこから出てきていると思います。

とりわけ終章の、圧倒的な絶望を見つめながら希望をつかみ取ろうとする筆致の迫力はすさまじいものがありました。短めの本にもかかわらず、1960年代から現代までの人文学と批評、そしてそれらがその一部であるところの世界の歴史について長い旅をしたような読後感。

二周目、読みます。