集団性を思い出す

 日曜は『レイモンド・ウィリアムズ研究』の合評会。

 (本ブログ経由で同誌のご希望をいただいておりますが、順次発送しますので少々お待ちください。)

 経済史の専門家に関さんのインタヴューを講評いただき、非常によかった。かなり乱暴にまとめてしまうと、経済学のターミノロジーや手続きという点では無茶苦茶なところがあるが、でも問題の核心はついているというところか。関さんの言説的なポジションを考えるとき、これは非常に重要な評価であると思う。

 印象深かったのは、生産と消費ということを考える時、生産は「コモン・ストック(社会的富)」を増加させるものなのであり、消費は(生産自体に必要な消費も含めて)そのコモン・ストックを減少させるものなのだ、という考え方。これは、競争的な個人主義だけで「経済」を考えては絶対に出てこない集団性の思考であって、こういうことをちゃんと考えている経済史家がいるというのは勇気づけられる。(いや、ずっといたのを私が勉強不足で知らないだけでしょうが。)

 ではなぜそのような集団性が想像しにくくなっているのか、というのが、合評会を通して出てきた最大問題である。コモン・ストックを共有物として考えることは、かなり難しい。その困難さを理解し解きほぐすには、やはり、個人主義も含めたリベラリズムの系譜を、「消極的系譜学」の形で洗い直すことが決定的に重要だと、改めて確信したしだい。

 ところで、先日のウェールズに関するエントリーで、「ウェールズナショナリスト」などと書いたが、私自身はいろんなところで地方分権新自由主義の親和性について述べている(つもり)なので、それとどう折り合いがつくのかを(昨日の飲み会でつっこまれたこともあり)少し考えておきたい。

 確かに、地方分権の動きは新自由主義と矛盾しない場合が多い。たとえば今回のウェールズ住民投票について、立法権の完全委譲に賛成する人びとの論拠のひとつには、現在の流動的な経済に対する意思決定の迅速さというものがある。これだけ見ると、いかにもネオリベ(の思うつぼ)なのである。

 しかし、私が地方分権新自由主義の親和性を言うからといって、では地方分権はやめにして強力な中央(への従属)を再建せよ、とは主張しないし、主張できない。というのは問題はまさに、地方分権か中央集権か、という二項対立でしかものを考えられなくなっていること自体だと考えるからである。これは、私が去年ワイルド協会の発表で述べ、キーワード連載で今度書くつもりの、「自由な市場か、強力な国家か」という、ネオリベの系譜学にぴったり一致する。問うべき問題は、自由市場や地方分権ネオリベ的だということそのものではなく、上記のような二項対立への思考の制限の全体であるだろう。

 だから、私はウェールズ地方分権を両手放しでは喜べないけれども、それを否定する(=中央への従属を継続するように主張する)こともできない。大変なジレンマである。だが、それは私たちのネオリベな現在を考える上ではもっとも重要なジレンマであるとも思う。ウェールズナショナリストであるということは、そのようなジレンマに巻き込まれ、それを本気で考えざるをえないということにほかならない。