核家族時代

The Nuclear Age

The Nuclear Age

 久々に、ポスト研究会の雑感を。

 この小説のタイトルにあるnuclearは、「核兵器」の核と、「核家族」の核のダブルミーニングなのだが、じつのところ、力点は後者にある。つまり、オブライエンはつねにヴェトナム戦争を問題にしたり、この小説では冷戦における核戦争の恐怖を問題にしたりするのだが、ふつうの読書感としてはおそらく、イニシエーション小説的な読みに重点がおかれるのではないか、ということ。たとえば、Things They Carriedにおける、徴兵を逃れてカナダ国境に行く印象的な場面などを考えればよい。つまり、読み方によっては、題材はなんでもよく、ちょっと神経症ぎみの青年のイニシエーションという「普遍的」な物語のアレゴリーとして、読めるのである。

 この小説の場合、主人公ウィリアムは、核兵器への恐怖を親(核家族という共同体)に理解してもらえないことから、神経症になる。物語は基本的に、ここで失われた「核家族」をウィリアムが獲得していくことを軸にする。だから、「核」の意味の重点は「核家族」にある。

 もちろん問題は、ウィリアムの問題が社会と政治の問題には結びつかず、個人化・心理化されることだ。だから彼は、核兵器を恐怖しつつウラニウム鉱山で財産を築くという矛盾を生きることが可能になる。(つまり、核への神経症的恐怖という個人的問題と、ウラニウムを供給するという社会的行為は結びつかない。)

 この後は本日述べたが、しかし、ウィリアムの「成長」には問題がある。ある意味では成長していないのだ。それは、彼が受診する精神科医チャック・アダムソンとの関係に見て取れる。チャックは、神経症のウィリアムに「第三者の審級」を与えるような治療法はとらない。そうではなく、ウィリアム以上のパラノイアを演じてみせ(演技かどうかは分からないが)、いわばウィリアムの鏡像を何倍にも拡大して提示することで、ウィリアムの当面の問題を解決するのだ。

 これはもちろん、根本的治癒をもたらさない。ウィリアムは、リスクの上にのっかった人生をそういうものとして受け入れる、という水準では「成長」しているのかもしれない。彼のつくった核家族が、いつ核兵器となって破裂するかわからない人生である。しかしこれは、ネオリベ的現在を生き続けるという、おそらく延々と繰り返される決断であり、そこからは、あり得べき治癒、つまり社会の変化という治癒は排除されるのだ。リスクに対していつも身構えていることが規範となった社会の、変化である。

 久々に140字以上の文章を書いたら疲れたのでこれくらいで。

 ところで次回の冷戦読書会は、発作的に私が報告することになりました。イギリスに渡ることになります。主なテクストはJ. G. バラードの『結晶世界』。(じつは遠い昔に書いた論文をリファインしたいというもくろみ。)詳しくはまた。