価値と大晦日

 『Web英語青年』のキーワード連載、今回は「価値」です。これまでとは打って変わって真っ正面からぐいぐい論じられております。思うに、文学研究において「価値」の問題は長らく棚上げにされてきたと言えるかもしれません。文学的経験、さらには経験一般の「価値」について問う、などというといかに時代がかって聞こえるかを考えてみればそれは分かるように思います。しかし、今こそそれをすべきだというマニフェストとして読みました。

 簡単に整理すると、「価値」には二種類ある。つまり五台のベッド=一軒の家のように、等号で結ばれることによって生じる価値と、もうひとつは何者とも等号では結べない単独的なものの価値。後者は非常に想像することが難しいし、容易に前者へと包摂(物象化)される。たとえば、人間の命はかけがえのないもの、つまり単独的な価値を持っているはずのものだが保険統計学にかかれば数量化されてしまう、というふうに。

 文学の何が重要かといえば、この単独的なものの価値を常に問い続けることではないか。しかも逆説的にも、それは「価値」である以上社会的なものでもあるという。

 というわけで大晦日。恒例のネオリベ自己点検、と思ったが、今年はちょっと寂しいかも。

 共編著×1、論文×2、翻訳×2。以上。なんて書くと確かに寂しいのだが、オフィシャルには「その他」に入るようなもの(一連のワークショップや研究会だとか、上記のキーワード連載など)が結構多い。仕事の仕方が変わってきたような気がする。というか、私個人が何をするかということにどんどん無頓着になっている自分がいる(だからこうやって自己点検して抵抗しているのかも)。これは、最近の飲み会で説教を頂戴したのだが、よくない。特に、来年やろうとしていることを考えると、よくない。もっと自己愛を。

 実際今年は、個人の存在のちっぽけさをこれでもかと痛感させられた一年だった。そんな中、年賀状に「おめでとう」と書けるのか、書いていいのかと逡巡しています。で、逡巡の結果、「書こう」と思っています。私たちは生き残って、喪のうちにある。おそらく一生、喪のうちにある生を送るのではないかと思われるほどだ。でも、そのような生であっても、奪われてはいない。それを「めでたい」と呼ぶことは、死者に対する礼儀でさえありはしないかと思うのです。これは単なる正当化かもしれませんが、それでもそう思う。

 問題は、大晦日の今になってもまだ年賀状を買ってない、ということなのですが。