資本のコミュニズム

 これをぼちぼち読み進めてますが、「認知資本主義」がどれほど新しいものであり、またそれが本当に全面化しているのかについては、最大限の慎重さをもって考えなければいけないのではないか、という気持ちが強くなる。生政治的な資本主義が認知を含めた人間の生をコモンウェルス=共通の富として収用しているまさにそのゆえに現在はコモンウェルスを取り戻すチャンスだ、というハート=ネグリ的なロジックの前提は、それがなにか新しい事態であるということだが、先日の合評会の話も考えると、コモンウェルスというものは(もしくはコモン・ストックというものは)つねに存在してきたのであり、ハート=ネグリが言っているのはその分配論というおなじみの話題でしかないのではないか。もちろん、問題が集団的なコモンウェルス=コモン・ストックの想像の不調であるなら、認知資本主義や金融資本主義がそれを逆説的にも可視化しているということはできるのだが、それを「奪還」するといっても、それを奪還する主体は一体誰なのか、というのが最大の問題となるだろう。ハート=ネグリの答えは単独性のアソシエーションになるのだが、先日紹介した三浦さんの論文での批判を考えても、この単独性というやつは、コモンウェルス=コモン・ストックを想像する際の最大の障害となっていはしないか。本件、継続審議。(新自由主義研究会でやりませんか?)

 ところで、「認知資本主義? 全然新しくねーよ」というのが岩井克人のエッセイなのだが、本当に認知資本主義については何も読んでいないらしく、認知資本主義についてはまったく的外れな推測でわきに押しやり、貨幣経済がその本質からして金融資本主義だし貨幣は最初からデリバティヴだ、という議論を進めつつ、ポスト産業資本主義では「疎外できない頭脳労働者にいかに利潤を生み出す差異の創造過程に参加させるか」が最大問題であって、それをやったモデルがグーグルで、という結論はそれは認知資本主義の話じゃないの、と笑った。