コモンのイデオロギーとユートピア

 昨日は新自由主義研究会。こちらの本を「全部」読むという。

The Idea of Communism

The Idea of Communism

  • 作者: Slavoj Zizek,Costas Douzinas,Alain Badiou,Judith Balso,Bruno Bosteels
  • 出版社/メーカー: Verso
  • 発売日: 2010/12/13
  • メディア: ペーパーバック
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 私はHardtとNegriの章を担当。これはこの二人に限った議論ではない(たとえばZizekも出発点としている)が、資本主義か社会主義か、privateかpublicかという対立ではだめで、第三項としてのthe common、すなわちcommunismを、というのは、私がここのところ考えてきたことにぴったりと当てはまる(いや、私がオリジナルだと言いたいわけではなくて、一定の必然性のある話なんだろうなというとこと)。

 しかし、昨日はまだはっきりしてなくてしゃべらなかったが(いや、しゃべったっけ?)、やっぱりちょっと違う気もしてきた。少なくともHardtとNegriは、資本主義のオルタナティヴとしての社会主義ではだめ、ということを、かなりはっきり言っている。Negriの場合はそれがstatismになるからダメと。

 私が考えてきてこれからも考えたいのはちょっと違っていて、新自由主義の支配的イデオロギーというものがあるとして、それはまさに資本主義か社会主義か、という選択肢を唯一のオルタナティヴとし、もちろん社会主義は(現実に存在した社会主義の記憶を利用しつつ)真の選択肢ではなく、初めから選べないものとして提示するということなのだ。この選択肢は真の意味で「イデオロギー的閉域」をなしているということ。

 HardtとNegriはだからといって、その二つとはまったく異なる第三項として「コモン」を持ち出すという非弁証法的な話はしておらず、支配的な認知資本主義がすでに「コモン」を潜在的に実現しているのだがら、それを現勢体にすればよいということである。それにしても、それが十分に弁証法的なのか、よくよく考えてみるべきではないか。

 問題に思えるのは、上記の選択肢のうちの「社会主義」の項が、支配的なイデオロギーに従う形で、初めから選択肢として検討されないことであるようだ。そうではなくて、社会主義なりpublicなものなりは、長い系譜によって上記のようなイデオロギー的閉域へと制限されてきたのであって、要するに、もう少し社会主義の忘れられた意味を思い出す努力をしてもよいのではないか、ということだ。(私の考えている「コモン」はそこから出てくる、と、これは予想の水準だが、思っている。)いや、社会主義だけではなく、福祉国家についても。福祉国家イデオロギーユートピア新自由主義を準備した、その弁証法を考えないと、「コモンのコミュニズム」も絵に描いた餅になりかねないと、これはほとんど備忘録。

 次回は(またちゃんと告知しますが)そのHardt & NegriのCommonwealthを読みます。日程は6月12日。