自由

 『Web英語青年』での連載、今回は私が「自由」で書きました。

 震災直後の麻痺状態で、非常に苦しい執筆でした。その分よくなっているというよりは、なんだか筆が走っていない感じがしなくもない。しかしそんなことはともかく、今こそ重要な論点を提示できているのではないかと。

 ところでツイッターではつぶやきましたが、今回の原稿を書くにあたって、ジジェクの『ポストモダン共産主義』はぜひ参照すべきだった。これは、この原稿がまた別の形になるときのための備忘録として書いておきます。

 もう少し具体的には、ジジェクはハート&ネグリが「コモンズ」にたどり着いたところまではとりあえず認めつつ、そのコモンズの奪還がエディプス的反乱で終わってしまうことを説明できていないと批判する(パラフレーズしてます)。つまり、革命の後の反革命というおなじみのコースを、ハート&ネグリではたどってしまうと。問題は、二人がコモンズを指摘しつつ、その分配をいうときに「社会主義か、資本主義か」の(偽の)対立から出ておらず、この(偽の)対立が相互補完的に現在の全体性をつくりあげているなら、二人の議論はその外部に出ることはできないという。ジジェクはその外側に「コミュニズム」を置く。

 上記の私の記事では、バーリンの古典的な「消極的自由」と「積極的自由」にことよせて同じようなことを論じたつもりです。