昨日は新自由主義読書会。フレイザー本は、あのあいまいなところが何一つないものの書き方にとまどいつつ、とにかく90年代半ばにフェミニズムの文脈で「再配分」を言ったえらさというところでは一致する。バトラー、ベンハビブとの論争という文脈はあるものの、どうもフレイザーの社会主義フェミニズムを文脈づけるのが難しくはあるのだが。
第二章など読めば読むほどベーシック・インカムの有効性があきらかになる次第。これは山森亮氏がその本のコラムで書いているが、フレイザーが「総稼ぎ手モデル」と「ケア提供均等モデル」のいいところどり+αの道として示す「総ケア提供者モデル」にしても、雇用労働もケア労働もできない人たちは選別的な社会扶助にゆだねられることになり、スティグマが付与されることになる。その点、BIであればそのような心配はなし。
また、「再配分と承認」問題にしても、BIはそもそも「承認」を必要としない世界を出現させるはずである。フレイザーは一度だけベーシック・インカムに触れているのだが、完全にpassing referenceという感じで、視界には入っていない模様。
先日触れた「ウィリアムズとフーコー」の章については、ウィリアムズとフーコーそのものに「ついて」の章ではなかったものの、"dependency"というキーワードの系譜学は非常に面白いものだった。
産業主義以前の「モラル・エコノミー」においては、「依存」は普遍的な状況である。その経済の内部において、すべての人が相互依存の状態にあるからだ。(もしくは、君主への「従属」という意味での依存状態についてもほとんど普遍的といえる。)その後、産業社会からポスト産業社会への歴史とは、「依存」のスティグマ化の歴史である。産業社会が登場することによってはじめて「個人のindependency」という観念――経済的独立の観念――が登場し、そこからこぼれ落ちて慈善の対象となる人たちがdependentな存在としてスティグマを付与される。福祉国家下では、「よいdependency」と「わるいdependency」が分割される。前者の代表例が、年金受給者であり、後者の代表例がwelfare mothersだということになる。ところがポスト産業社会(新自由主義)では、あらゆるdependencyがわるいものとされるばかりか、それは心理学化、疾病化される。
BIのようなかなりユートピア的なヴィジョンを実現させるには、このような系譜をもつdependency観念をなんとかする必要があるわけだが、このような系譜学はまさにそれを「なんとかする」ための試みなのである。
ということはあれだな、堂々と「依存」することこそ、新自由主義のオルタナティヴを開く活動になるわけだ。どんどん依存しましょう。というわけで読書会の後はアルコール依存者やニコチン依存者の反新自由主義的饗宴。(最近は歌唱依存の饗宴をしてないなあ。)
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