カネの話

帝国の文化とリベラル・イングランド―戦間期イギリスのモダニティ

帝国の文化とリベラル・イングランド―戦間期イギリスのモダニティ

 ご恵贈いただきました。多くの章は別の媒体で読ませていただいてますが、私のまだ見ぬ博論と「かぶる」部分がかなりあるので、改めて味読させていただきます。なんにせよ、業界の仕掛け人(黒幕?)の著書、広く読まれるべき本だと思います。

 昨日は新自由主義研究会。ジョヴァンニ・アリギの『長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜』。本文中で断られているように、この本は資本主義のtop layer=金融資本の系譜をたどるものであり、middle layer=商品市場やbottom layer=生産という水準は(もうさんざん強調されているという理由で)括弧にくくっている。

 そのアプローチが評価できるかどうかは、この本が現在性の系譜学をめざすものであるとして、金融資本が現在不可視の地平であるのかどうかにかかっているかもしれない。それは、たとえばフレドリック・ジェイムソンの「モダニズムと帝国」において、第一世界(諸帝国)の抗争として表象される世界が、第三世界(植民地)を排除(精神分析的意味で)しているとされたのと同じ意味で、金融資本が排除されているのかどうかということである。

 経験的には、金融資本は過剰に表象されているのだが、それがアリギ本を評価できない理由ではない(そう、最終的にはあまり評価できないような)。実際、モダニズムにおいても植民地は過剰に表象されるのだが、ジェイムソンが言いたいのは、そのような表象こそが包摂と排除のメカニズムだということだったのだから。そうするとなすべきなのは、金融資本の誤表象というか、表象による想像的解決のありようを実証的に解きほぐすことであろうか。つまり、アリギは、金融資本を不可視化することでだれがどのような利益を得てきたのかをもうちょっとはっきり論ずるべきだったのではないかと。これはないものねだりかもしれないが。

 風邪が治らず、また腰痛が出てきたので、大事をとって飲み会には参加せず。珍しい。

追記:金融資本について、資料を探していたらこんな翻訳が。

イギリス多国籍銀行史―1830~2000年

イギリス多国籍銀行史―1830~2000年