疲れた。木曜は非常勤ではるばる都心まで行っているのだが、どう考えても京都の4年間で電車に弱くなってる。電車に乗るだけで、疲れる。そのうち慣れるか。
目白方面はHowards Endを、学生にレポートしてもらう第一回。この演習によって懸案のHowards End論をそろそろ形にしようと目論んでるわけだが、冒頭のシュレーゲル姉妹の住まいであるWickham Placeの描写が新発見であった。Wickham Placeは大通りから"a lofty promontory of buildings"によって隔てられていて静かだ、というところなのだが、これは、Jed Estyが話の枕に使っているフォースターの短編"The Other Side of the Hedge"(1904)に通ずるものがある。「外」から隔絶されたパストラル的「内部」。メモなので以下略。すみません。
その、疲れた電車通勤で読んだのはこちら。
- 作者: C.シュミット,田中浩,原田武雄
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1970
- メディア: 単行本
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こんなもの読むから疲れるんだ。
それはともかく、前衛論のために、という経緯で読み直したゆえの洞察がいくつかあったような気がする。去年、id:takashimura氏と共同レクチャーした際には、「さまざまな分断を学び捨てる」ことを標榜し、「前衛」を政治的前衛や美的アヴァンギャルドなどへと分断してしまうことがともなう死角の問題を述べたわけだが、シュミットが政治(友・敵)が美学(美・醜)にも道徳(善・悪)にも、経済(利・害)にも還元できないと主張するとき、それは政治的なものを他から切りはなそうという「分断」の身ぶりなのではなく、まったく逆に、まさに分断を学び捨てる態度なのだと悟る。シュミットにとっては、これらの分断を行い、美学や道徳や経済に力点をおくことによって政治的なものを覆い隠してしまうものこそが自由主義的民主主義なのだ。まあ、ただ、シュミットの場合はそれが政治的前衛(全体主義、決断主義)に帰結してしまうわけだが、そのような帰結にとらわれずに読むべきものであろうか。メモなので以下略。