その話を間違いにするために

 新自由主義研究会ジジェクの巻。どうも文句を言うばかりになってしまう格好になったが、今回読んだジジェクの著作、現在への介入としてすばらしいと思う、というのが前提での文句でした。述べた通り、新自由主義イデオロギー的な閉域が、リベラル資本主義と全体主義(またはそれを含意する社会主義)の鏡像的な二項対立であるなら、ジジェクの「コミュニズム」はその外部として(というか正確にはその外部への志向を稼働させる統制的理念として)おかれる。

 コミュニズムというのは、つまり生産するものたちの共同体の理念なわけだが、これはこれまでつぶやいている通り、今回の震災でウィリアムズ的な田舎と都会の問題とともに痛烈に前景化している問題である。生産するものたちの共同体は、「田舎の共同体」であってはならない。つまり、消費者とはべつの一部の生産者の共同体であってはならない。それは田舎/都会、生産者/消費者の分断をこえた、生産するものたちの共同体でなくてはならないだろう。はっきり言って、そのような共同体を、日本の現状から出発して想像することは、困難を極める。これはたとえば、「地産地消」の理念が、容易にネオリベに回収されてしまうような困難と同根であるかもしれない。

 この点で、関曠野さんが『図書新聞』で、今回の震災を基本的に都市の問題として捉えているのはさすがの炯眼である(ご本人に言わせればこんなのは炯眼ではなく、分からない方がおかしいのだろうが)。日本の都市への一極集中は、純粋に異常だ。しかしこの異常さは、さまざまなプロセスを経て自然化されてきた。この自然化の手続きの基本は、田舎での生産=労働の美学化である。しかし原発は(そしておそらく原発労働の存在は)、その裏側にある美的でないものを、あきらかにしようとしている。

 話は変わるが、ジジェクが『大義を忘れるな』および『ポストモダン共産主義(笑)』の結論部で依拠しているジャン=ピエール・デュピュイの『津波の小形而上学』、『世界』の五月号に冒頭が部分訳されてます。デュピュイが「プロジェクトの時間」のモデルケースとして提出するのはノアのエピソード。洪水を予言するが相手にされないノアは、死人が出た際に灰を体にあびるという風習のある町で、みずからの体に灰をあびせる。町の人びとに「だれかが死んだのか?」と尋ねられたノアは、「お前たちだ」と答える。明日起こる洪水によって死ぬであろうすべての人たちを弔っているのだと。それを聞いた町の大工は、ノアを訪ね、「その話を間違いにするために箱舟づくりを手伝わせてくれ」と言う。

 災害のような出来事は、歴史を過去遡及的に一変させる。ノアの洪水の場合、それはすべての歴史の抹消(歴史を知る人間がいなくなるのだから)という、根本的な変化である。ディピュイはこのような時間性を未来にずらすことを提案する。つまり、現在を、そのような出来事が起こる未来にとっての過去と見るのである。現在とは、「未来において避け得ずに起こってしまった災害によって書きかえられた過去」となるのだ。そう見た場合、災害は、用心深く準備をすれば避け得るものではない。未来における必然である。言いかえれば、「最悪の事態を想定」したところで、その想定は必然的に裏切られることになる。そのようなパースペクティヴが「プロジェクトの時間」なのである。これは単なる悲観主義ではなく、「悲劇的パースペクティヴ」とでも呼ぶべきものだろう。未来における必然的出来事は、過去を(つまり現在を)一気に書きかえる。ジェイムソンの言う「現在へのノスタルジア」的なパースペクティヴである。

 私たちは「その話を間違いに」できるだろうか。すでにそれには失敗している。何度も失敗してきた。だからなお一層、その話を間違いにする努力を積み重ねなければならないだろう。

大義を忘れるな -革命・テロ・反資本主義-

大義を忘れるな -革命・テロ・反資本主義-

世界 2011年 05月号 [雑誌]

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