またしても風邪をひいている私です。
小学生のころ、タイムカプセルというのがあった。10年後の自分に向けての手紙を埋めておいて、その手紙が実際に届くというやつ。それが届いたのがすでに10年以上前だったわけだが、それを受け取って読んで、「生意気なクソガキだな」と思ったことを覚えている。
ところで手紙というものは、つねに現在から未来に向けてしか書けないものである。未来から現在に向けて手紙を書くことは不可能である。それができるのはフィクションだけである。
偶然にも今日観た、そして今読んでいる作品はいずれも「未来から現在に宛てた手紙」となっている。この二作品。
DVD 東京藝術大学大学院映像研究科第二期生修了制作作品集2008 (
- 作者: 東京藝術大学大学院映像研究科
- 出版社/メーカー: 東京藝術大学出版会
- 発売日: 2008/12/10
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から、『彼方からの手紙』(瀬田なつき)と、
- 作者: オラフステープルドン,Olaf Stapledon,浜口稔
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後者については読み始めたばかりなのでおいておくとして、前者についてはid:hidexiさんから「観ろ」というメタメッセージを受け取って、取り急ぎ。
「未来から現在に宛てた手紙」という時制において、目の前に起こっている現在はつねにすでに失われた過去である。
そのような時制の感覚において現在を眺めることができるのは、もっとも高度な人間的能力であって、それが発揮されうるのが唯一フィクションという形式であること、これをつくづくと感得した。「死を思う」とはつまりこういうことではないか。現在が、「現在」の一瞬後にはすでに残滓と化していく。未来と現在とは、そのような、指の間から流れ落ちる砂のような関係でしかあり得ない。
「未来」と「未来性」を区別して定義するならば、「未来性」とはそのような、崩れ落ち流れ去る現在の「一瞬後」としての未来である、ということになるだろう。ここで言う「一瞬」とは単線的時間の観念ではない。非常に単純な話、「現在」を思った瞬間にその現在はすでに過去になっている。したがって「現在」は「未来」に規定されている。そのように「現在」を規定する他性、これが未来性というものである。
この映画での「由紀」の存在とは、その未来性を登場人物として具現化させてみせたものであろう。主人公の崩れ去り流れ去る現在を規定する他者。主人公自身をすでに失われた存在としてとりもどそうとする他者。そのような他者=未来性は、日常に折りたたまれて存在する。この映画はそのことを、日常性の極致ともいうべきコンビニでの日常性の脱臼をプロットの起動の鍵としてみせることで表現している。
なんて、それ以前に、「父ちゃん、死なないぞ」とセンチメンタルに涙したことを告白せねばならないが。