断片読書日記

 授業準備その他で断片的読書。ドブレは『革命の中の革命 (1967年) (晶文選書)』で「思想(書籍)が人間を動かしてしまう」体験をした後、逆に自分の書くものが読まれない体験をし、そこからあのようなものを書いたのだなあ。Estyは出た当時以来だから5年ぶりくらいの再読だが、再読による新しい発見が驚くほどない本だなあ、など。

 その中でも、読み始めたこれの序章に衝撃を受ける。(といっても序章とちょっとしかまだ読んでないのだが……。)

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察 (1983年)

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察 (1983年)

 とりあえず序章からドンと引用しておく。近代の批評家にとってなぜ『ハムレット』が「謎」となってしまうのか、その問題は実証主義的、コンテクスト再構築的歴史主義では答えられない。そうではなく……

 ……本来の歴史学は、過去と現在の対話を欲する。それは事実としての過去をはっきりと未知の異質の他者として認める。それでもなお過去との対話が企てられうるとすれば、その根拠は我々自身が我々自身にとって知られざる存在、未知の他者であるからにほかならない。我々は自明な自己同一性をもたない。我々が生きる現在とは、不断に生成し成長し変容しつつある〈今〉なのである。ゆえに過去との対話を企てる歴史学にとって本質的なことは、現在と共に過去の意味もやはり生成し変容し新たな容貌を見せるのだ、ということである。過去の中には、未知の未来が秘匿されているのである。そして歴史学は、たんなる過去ではなく、その裡に秘められているような、記念と追憶に値する過去の異例な事物にこそ注目する。なるほど人間は彼の過去と由来に縛りつけられている。だが彼を真に拘束しているものは、不動の過去の見えざる鉄鎖ではなく、繰り返し回帰してくる未来の約束なのである。歴史学は過去を忘却から救出し、それが秘匿する予期せぬ意味を、未来の声として現在へと到来させる。(13頁)

 圧倒的である。特に後段で、「未来」が導入される部分など、変な話、肝を冷やした。〈今〉の変容が過去の変容ももたらすのであれば、そして人間がそのように変容する過去に拘束されているなら、過去の他者性に対峙することとは変容し続ける〈今〉に対峙することにほかならず、そのような意味での常に逃げ去る〈今〉とは、わたしがここでちょくちょく強調している、たんなる「未来」に対立する「未来性」にほかならない。(ここの跳躍がうまく言語化できずもがいているのだが。)いささか図式的になることを恐れながらも、これはレイモンド・ウィリアムズの残滓的/支配的/勃興的と相通ずる議論である。うち捨てられた残滓的なもの(「過去の異例な事物」)を言語化する批評的アクションとはすなわち〈今〉(支配的なもの)との対峙であり、それはすなわち勃興的なもの(「未知の未来」)を見据えようとするアクションである、と。最後の一文などはそれが凝縮された文章なわけだが、そこに見える「歴史学」を「批評」と言いかえてもよかろう。

 しかし、この本は畏敬するK先生に教えられて読み始めたのだが、まったく同じ経緯で読んだ藤田省三をはじめとする「精神史」派といい、80年代あたりの批評/思想のそれこそ残滓の読み直し(これを残滓ととらえるのはわたしの単なる勉強不足かもしれないけど)はかなり豊穣な結果をもたらしそうな予感。