アフォーマティヴがヤバイの

Walter Benjamin's Philosophy: Destruction and Experience

Walter Benjamin's Philosophy: Destruction and Experience

 本日は二コマの後夕方から緊急会議ということで、間の時間でハーマッハーの「アフォーマティヴ、ストライキ」を耽読。うぐぐ、やはり他自律と未来性というテーマであればアフォーマティヴを導入するのが誠実というものだということが分かってしまった。でも、まだアフォーマティヴをまるっと説明できるほど飲み込めていない。

 少なくとも言えることは、時間性という切り口でいくと他自律とアフォーマティヴは同型であるということ。「自律化せよ」をひとつのパフォーマティヴとして考えてみれば分かりやすい。他者に「自律化せよ」と言われて自律化した主体は自律的ではない。だから、「自律化せよ」という言語行為は、自己から自己に向けたものでなければならない。ところが、自律化する前に自己は存在しない。でも自律的な自己はいつのまにやら存在するのだから、「自律化せよ」は自己であり他者でもある存在からの言語行為である(ゆえに他自律)。時間性の観点からすると、「自律化せよ」という法を与える自己/他者は未来からやってくるのだが、それを受け取る自己/他者は単なる現在にいるのかといえば違う。受け取る自己/他者はその法を受け取るまでは存在しないし存在するわけだから、「不可能な現在」にいるとしかいえない。

 これは、一見自己から他者、他者から自己へ向けたパフォーマティヴでも同じ。「あなたとわたし」は言語行為そのものによって創設されるのだから。

 ハーマッハーはベンヤミンの純粋暴力(法措定暴力と法維持暴力の循環そのものを断ち切る暴力)とアフォーマティヴを等置する。また、アフォーマティヴはパフォーマティヴの「条件」であるとも言う。純粋暴力とは「すべてのはじまりにある=「前」がないパフォーマティヴ」であるのだから、これは自律的=他自律的主体と同じ時間性にあることになる。証明終わり。

 さて、どうするか。

追記:以上のように書いてみて自分の理解に不安が。そうすると、アフォーマティヴは無から有への跳躍を媒介する超越論的契機だ、ということになりそうだが、ハーマッハー自身はアフォーマティヴを「超・超越論的」なものだと言っている。それはどう理解すればよいのか。