今の私が有り過ぎ

「名づけ」の精神史 増補 (平凡社ライブラリー)

「名づけ」の精神史 増補 (平凡社ライブラリー)

 東京行きの際の行き帰り読書。藤田省三に感嘆し、「精神史」派の足跡を追わんとして。

 「精神史」の一番の肝とは残滓的なものの存在を、落ち穂を拾うふりをしながらいきなり歴史的断絶のモメントの中心部へと据えてみせるというところであり、やはりウィリアムズと響きあうのであった。この本だと「都市の崩壊──江戸における経験」など。

 その本筋とは関係ないが、「精神の現在形」での、渡辺哲夫『知覚の呪縛』からの引用に鳥肌が立った。というわけで孫引き。

「私は実人間なんだそうです。実人間は、オタチギエ(お立ち消え)できません。現れっぱなしです。実人間は、オタチギエは死ぬことなんです。……私だけ折りたためないで、ナクナレないんです。……鉄のような人間、鋼鉄棒人間、硬度人間、異常人間だそうです。……今の私が有り過ぎるんです。」(分裂症者の言葉)(80頁)

 現れっぱなしの実人間。これはたとえばパオロ・ヴィルノの言うポスト・フォーディズムにおける労働者そのものである。現れること、パフォーマンスを続けることこそが労働であり、それを止める(オタチギエする)こととは労働市場からの落伍そのものであり、それは死を意味する。そのような逃げ場のない剥き出され感があふれている言葉だ。

 なんて、一節だけの引用なのでウソかもしれないので、元の本を読んでみたい。

知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫)

知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫)