ディーセントな市場

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 良い書物には、一冊持ってひとりでじっくり読んでいたいものと、何十冊も買って配って歩きたい種類のものがあるが、これは後者である。

 なによりもすばらしいと感じるのは、こういった「社会問題」には、それが社会問題ではなく単なる「問題」である水準(つまり「現場」の水準)と、それが、「社会問題」へと(場合によっては)疎外されてしまう水準(「言論」の水準)があって、つねにそれが堂々巡りの議論を惹起してヒステリックな反応を引きおこしたりするのだが、湯浅誠という人物は、そういった「現場の水準」と「言論の水準」という問題を問われれば、おそらく「両方バランスよくやりましょうよ」と言ってそれを粛々と実行していくであろうような「勁さ」を確実に持っている人だ、ということである。ご本人は、そんな人物評価はいらないから現存する問題を解決しましょうよ、と言うであろうが。

 ありうる誤解を勝手に正しておくと、狂騒的な新自由主義が現実的なほころびを見せ始めている中、この本が訴えているのは福祉国家への回帰というわけではない。ひとことで言えば、本書のヴィジョンとは「ディーセントな市場」というところであろうか。湯浅氏が「溜め」と呼ぶものは、ピエール・ブルデューの言葉に言いかえれば社会関係資本であるが(実際は「溜め」は単なる資本も含むが)、その社会関係資本も根こそぎ奪ってしまうような自由主義市場は、早晩その根幹から倒れてしまうであろう、と。湯浅氏は人間の「再生産」という言葉をためらいなく使うが、それは人間をモノ化しているのでは決してなく、人間が労働するためには「溜め」が絶対的に必要なのであってみれば、再生産は必然的に社会関係資本(溜め)も含みこんだものでなければならないということである。

 ポストフォーディズム的労働とは、まさに「溜め」の部分もすべて労働へと動員する体制のことである。しかし、湯浅氏が述べているのは、もしくは本書に描かれる数々の事例が語るのは、単純に、「そうはいかない」ということだ。「溜め」を労働へと収奪しようとする動きは、確実に「溜め」自体の枯渇をもたらし、体制自体の破綻をひきおこす。そのようなディーセンシーに欠けた市場社会は、それ自体の生命力をみずからの駆動力としてしまっており、やがて停止するだろう。それを、現在の貧困問題はつきつけている。

 というような感想は本書の本筋からかなり逸れていることを注意書きしつつ、できるだけ多くの人に読んでもらいたい一冊である。