村上春樹がエルサレム賞を受賞し、授賞式ではイスラエルのガザ侵攻を批判したそうである。全文を見つけることはできていないが、新聞記事になっている断片的な情報を総合すれば、かなり踏み込んだ批判である。受賞を拒否せよという運動もあったが、作家としての選択はこれしかなかっただろう。黙すのではなく、語る。黙すといえば、村上春樹のノーベル賞受賞をくり返し予言している、ユダヤ系思想家の専門家のどなたかはこの件について沈黙を保っている。興味深い沈黙である。*1
ついでながら私が村上春樹を評価できる点というのは、上記のどなたかが主張するように彼の作品がノーベル賞を受賞できる世界性をもっている点ではなく、その暴力の描き方である。以前どこかで(ここで)書いたと思うが、村上作品で頻出する不気味な暴力とは、つねに「分身による暴力」である。自分の明示的記憶にはないが、自らが夢遊のうちに犯してしまったかもしれない暴力の亡霊、これは村上作品のもっとも重要なモチーフであると思う。それがもっとも破綻した不気味な形で表れたのが、一般には評価の低いらしい『アフターダーク』ではないか。さらに今回の受賞スピーチでの「壁と卵」の隠喩、そして「わたしは常に卵の側に立つ」という表明で分かったのは、その暴力は自分が行ったかもしれないものであるとともに自分に向けられたかもしれないものなのである。暴力を媒介としたこのような自他の崩壊とアモルファスな「わたしたち」の立ち上げというのは、つねに「『やつら』からもたらされる暴力」にしか想像力が働かない、かつ現実には暴力に満ちあふれた現在にとって、非常に重要ではないかと思うのだ。