村上春樹の「受賞」に思う

 村上春樹エルサレム賞を受賞し、授賞式ではイスラエルのガザ侵攻を批判したそうである。全文を見つけることはできていないが、新聞記事になっている断片的な情報を総合すれば、かなり踏み込んだ批判である。受賞を拒否せよという運動もあったが、作家としての選択はこれしかなかっただろう。黙すのではなく、語る。黙すといえば、村上春樹ノーベル賞受賞をくり返し予言している、ユダヤ系思想家の専門家のどなたかはこの件について沈黙を保っている。興味深い沈黙である。*1

 ついでながら私が村上春樹を評価できる点というのは、上記のどなたかが主張するように彼の作品がノーベル賞を受賞できる世界性をもっている点ではなく、その暴力の描き方である。以前どこかで(ここで)書いたと思うが、村上作品で頻出する不気味な暴力とは、つねに「分身による暴力」である。自分の明示的記憶にはないが、自らが夢遊のうちに犯してしまったかもしれない暴力の亡霊、これは村上作品のもっとも重要なモチーフであると思う。それがもっとも破綻した不気味な形で表れたのが、一般には評価の低いらしい『アフターダーク』ではないか。さらに今回の受賞スピーチでの「壁と卵」の隠喩、そして「わたしは常に卵の側に立つ」という表明で分かったのは、その暴力は自分が行ったかもしれないものであるとともに自分に向けられたかもしれないものなのである。暴力を媒介としたこのような自他の崩壊とアモルファスな「わたしたち」の立ち上げというのは、つねに「『やつら』からもたらされる暴力」にしか想像力が働かない、かつ現実には暴力に満ちあふれた現在にとって、非常に重要ではないかと思うのだ。

*1:本日(2/18)のエントリーで沈黙は破られたものの、普段の饒舌さはなりをひそめ、非常に「非政治的」なコメントにとどまっている。「非政治的な」というのは、ガザについて語っていない、パレスチナイスラエルについて語っていない、という意味ではもちろんない。ここにある非政治性というのは、私があまり共有しない新左翼的なものに対する警戒と忌避の結果としての「政治/文学」の抽象的区分のことである。この人の新左翼の戯画化は、一面的には納得するものの、そろそろ「害」の方がきわだってきてしまっているように思う。新左翼的なドグマに対して文学をおくという挙措は、もうあまり元気を与えてくれるものではない。