臨死体験とインファンティア

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

幼児期と歴史―経験の破壊と歴史の起源

 ずっと積ん読になっていたが、どうやら今回は課題図書のひとつだと思い、なんとなく表紙を開いたら、夢中になって一日読み続けてしまった。とはいえ途中で、まだ文字通りインファンティアにいる人たちに妨害されながら。

 インファンティア。経験のインファンティア。もっとも煎じ詰めた定義を抜き出すならそれは「言語をもたない経験」ということであるが、もちろんそれは「生きられた経験」や「直接経験」というだけの話ではない。ではなんであるのか、という点については、それこそが本書で探究されていることであり、それゆえ煎じ詰めた定義はできないのだが、私にとっての驚きは、(そろそろ某誌に載る)ウィリアムズ論で論じた「複眼視」とは、まさにアガンベンの言うインファンティアではないか、という点である。アガンベンは経験のインファンティアを「超越論的経験」と言いかえているが、これはカントにしてみれば(「経験不可能なものの経験」ということになるのだから)完全なオクシモロンである。

 アガンベンがそのような「超越論的経験」をいかに構想しているのかということは、本文よりも各節の最後に付けられた「註解」という名の幕間劇的な部分を読んだ方が直感的に理解できるような気がする。その中でもモンテーニュとルソーの臨死体験にははたと膝を打った。自分の死はそれこそ経験不可能なものである。それを、二人は意識と無意識のあわいで、あたかも幽体離脱でもしたかのような眼差しで記述する。その記述は、自我によるもの、主観的なものではすでにない。アガンベン自身が適切にも論を進めるように、精神分析の「それ」による経験である。

 ここで想起するのは、ウルフの『波』の冒頭、ジョイスの『若い芸術家の肖像』の冒頭、さらには夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭および結末である。いずれの作品においても、その語り手は、上記の臨死体験における語り手と同じであり、超越論的経験の場、精神分析的「それ」である。

 言いかえてみると、超越論的経験とは「自分の夢の中で自分の夢を分析している」経験である(これは、デカルトが経験したものだと伝記に書かれているそうだが)。これはイデオロギー批評の真髄を射抜く言いまわしである。イデオロギー批評とはもちろん、イデオロギーの外部から批評を加えることではなく(それは不可能であるから)、イデオロギー(=醒めない夢)の中で当のイデオロギー(=その同じ夢)を解釈するという不可能な試みなのだから。というわけで、アガンベンのいう経験のインファンティアとは、プロセスのただ中でプロセスを見渡す「複眼視」にほかならないわけである。