メタファーを磨かない

 土曜は新英米文学会の報告。2時くらいまで飲み歌い、明日は朝早いので……と退散(年取ったなあ)。日曜は朝から移動で出勤。迫る卒論の締切、その他突然降って湧いたさまざまな業務でちょっとパニック状態。というわけで土曜の報告が遅れました。いや、だれもすぐに報告しろとは強制してないわけで、「遅れ」てはいないのだが。

 今日、3月にやったRWシンポの討議部分の原稿を読みながら、今回自分がやろうとしていたことが改めてよく分かった。3月はid:hidexiさんの質問に、全然答えられなかったわけだが(いや、あの時なりの言葉では答えはしたのだが)、あの時の質問に答えること、私が今回やろうとしたのはそれだったのだと思う。そして、今なら答えられる、そんな気がする。気のせいでないことを祈る。

 その時の質問とは、ウィリアムズの「経験」に「究極の地平」などという名前(メタファー)をつけてしまうのは、ウィリアムズ的「経験」に超越論的なトーンをもたせすぎになるのではないか、ということであった。今回ひたすらに試みたのは、それに対する応答であって、エンプソン的「複眼視」でもいいし、「超越論的経験」でもいいし、「レトリックが開く経験の地平」でもいいのだが、「それ」をどう提示するかということ。

 しかし、あいかわらず「メタファーをどう磨くか」にとらわれがちになるのは反省すべき点かもしれない。いや、私たちがやっていることから、メタファーを磨くことを取ったら何も残らない、という部分はあるのだが、やはりそれだけでもない。思い返せばウィリアムズに取り憑かれた原因のひとつが、ウィリアムズは「メタファーを磨く」という枠組みからいかにもあっさりと抜けだしているように思えたからだ。

 いや、「いかにもあっさりと」というのは正確ではあるまい。それはおそらく苦闘の上で勝ち取られたものだったのだろうから。これは、家に籠もってレンズ、じゃなくてメタファーをひたすらに磨いていたのでは獲得できない境地であろう。磨くのもそこそこに投げ合ってこそ、というべきか。(と、またメタファーに走る私。)

 それはおいといて(おいとくのか……)、最後のエンプソン/アガンベンラカンの並置、これは直前にどこかから舞い降りてきた直感にまかせて書いたものの(そしてその部分は口頭発表としては「光速」とも言える速度で駆け抜けてしまったものの)、かなりの確信がある。今回の報告の文字化の作業が楽しみ(なるべく早く。諸氏、よろしくお願いします)。

 というわけで、狂騒状態から一気に鬱な仕事に埋没しているせいか、テンションちょっと低いですが。