他者の欲望について

 精神分析の教えのひとつに欲望とはつねに「他者の欲望」である、というのがある。

 分かりやすい例をとるなら、ある商品を欲するとして、それを欲するのはその商品の使用価値が高いからではなく、「みんなが欲しがっているから」という場合である。その際、自己の欲望の根拠は他者の欲望であるといえる。

 子育てをしていると、それが身にしみる。

 子供といちゃいちゃいしている。それなりに、楽しい。カミさんが横で写真を撮っている。

 その写真を後から見る。自分が子供といちゃいちゃしている写真を。

 すると、その写真を見る時にわき上がってくる感情は、子供といちゃいちゃしていた時よりもはるかに強いものになるのである。もう、超かわいい、みたいな、みたいな。

 ここで働いている機制とは、「子供といちゃいちゃして楽しそうな自分を見て自分が抱いた『超かわいい』という感情を、写真の中に写っている自分が事後的に受けとり、さらには現在の自分が写真の中に写っている自分の欲望を経験する」というものなのだ。

 分かりにくいな。

 つまり、今写真を見ている自分は写真の中の自分にとっては他者である。写真の中の自分はそのような「他者」の欲望を受け取ってさらに自らの欲望を増強させる。しかし写真を見る自分にとって写真に写っている自分は他者であるとともに自己でもあって、写真の中の自分の経験は自己の経験でもある。そこに欲望のスパイラル構造が、欲望の永久機関が生まれるのである。

 そのようなスパイラル構造に、永久機関に、デジカメやヴィデオを売る家電産業は負っているわけだ。なるほど。