矛盾としての翻訳者

 入学式。三度目の。

 翻訳カテゴリーでは、ごく技術的な問題を書いてきたが(ご無沙汰してるけど)、ひとつ、大きな問題がある。学術翻訳には「原文の構造に忠実であれ」と、「読みやすさ重視」という相反する流れがあり、例えばそれは「一文は一文に」という法則と、そうではなく関係詞節を切りはなしてしまう、などという形で表れる。この二派の歴史は長く根深い、ということが分かる本がこちら。

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

 こちらで紹介されていて、手にとってみた。いや、これは面白い本である。著者は上記の二派で言うと後者の「読みやすさ重視」派であって、さらに本書は「原文忠実」派への批判なのだが、本書はそれにとどまることなく、というよりその問題を枕にして日本近代を照射するという野心的な試みなのだ。

 私もその末席を汚している「輸入学問」が日本近代と骨がらみになっていることは論をまたないが、それを翻訳の文体問題から解きほぐすという視点がブリリアント。

 明治・大正期の日本ではドイツ的教養主義が「外からの近代化」と「上からの近代化」のイデオロギーとなったことから上記の分断が生じ、「原文忠実」主義は支配階級による教養主義の囲い込みの手段となったという話だが、そのような教養主義のあり方がいかに日本近代の「ねじれ」(ねじれてない近代なんかないのだが)となって現在にいたるかということは、例えば第五章で、中曽根康弘や渡邊恒雄がカントをその行動指針としていたという事実によって示されたりする。(この教養主義観はあまりにも、と思われるかもしれないが、本書にはそのアンチテーゼである高畠素之という影の主人公がいる。詳しくは上記リンク参照。)

 歴史的パースペクティヴの広がりのおもしろさ以外に、カントやマルクスの訳文の具体的検討や、カント用語の簡潔なまとめなど、表層的に楽しい部分もちりばめられている良書。

 確かに、輸入学問、輸入学者は日本近代の矛盾そのものである。そのような位置に身をおいていることの困難と、矛盾の位置にいるからこそなし得ることに思いを巡らしながら読んだ。