といっても、私の過去を振り返ろうなどというのではなく、たまにはまじめに(?)自分のプロパーな分野の研究メモでも。
cohabitationという言葉がある。文字通りにはco(共に)habitation(くらすこと)なので、「同棲」の意だが、特にフランス語「コアビタシオン」では、例えばシラク首相+ミッテラン大統領のように、保守と革新が同政権に共存することという、特殊な意味がある。
私は1930年代にしぼって研究しているのだが、この時代の面白さは広い意味でのcohabitationなのである。保守も革新も、ファシストも共産主義者も、国粋主義者もコズモポリタンも、気づけば同じ政治的利害のもとに集結してしまうような時代。なんだか現代に似ているなあと思う(といった類の感慨は往々にして気のせいなのだが)。
で、最近読んだのはこれ。
- 作者: Daniel Ritschel
- 出版社/メーカー: Clarendon Pr
- 発売日: 1997/10/02
- メディア: ハードカバー
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まさに「計画経済」を軸とするcohabitationを論じる歴史書。大恐慌以降の不況、失業率の増加という状況、レッセ・フェールの限界が誰の目にも明らかになったように見えた状況で、さまざまな政治的スペクトルにおいて「計画経済」が希望の星として現れた。それぞれいかにそれを解釈したか。モーズリーから労働党、産業界(PEP group)、人民戦線など、広汎に論じてくれている。
なんだかんだで面白いと思ってしまうのはやはりオズワルド・モーズリー。ファシストとしての顔ばかりが強調されるモーズリーの出発点は労働党であって、彼が最終的にcorporate stateにたどり着いたのはイタリアのファシズムをモデルにしたということもあるが、計画的で上からの高賃金政策による国内市場の拡大(と、保護貿易政策)によって、生産も最大化させ、雇用を創出しようという、多かれ少なかれ当時多くの左翼も惹かれていた(厳密には違うのだが、高賃金を不況の原因とするそれまでの経済学に反対したという点ではケインズ主義的な)テーゼから出発した、その帰結なのである。残念なのは本書では、モーズリーがファシズムにたどり着いたことを単なる政治的失敗として片付けているところがあり、高賃金政策からの必然的帰結として論じていない。したがって、cohabitationの重要な相をひとつ見失ってしまっているのではないか。