まなざしの世紀

 これまでvisionとかvisualityというテーマに興味を抱かなかったが、夏休みということもあり、秋の狼協会大会でモダニズムのperceptionsという話題を扱うらしいこともあり、少々横好きをば。

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

 私が持っているのは原典と十月社版。以文社版はそのままの再版かしら? で、「読んでなかったの?」と言われたら、「すみません、読んでませんでした」と頭を垂れるしかないが、こんな面白い本を読んでなかったことは後悔。

 この本、モダニズムの視覚とか現代(ポストモダン?)の視覚、スペクタクル社会といった主題はほとんど論じていない。しかし、それらを論じていないことこそが重要かと。現代をスペクタクル社会やヴィジュアリティ、イメージの時代として特徴づける論考は数多いわけだが、対象が現代であるゆえにともなう「死角」はどうやれば超克できるか。そこで本書が取る方法は、20世紀は括弧に入れて、そこに至る「系譜」を描くというもの。

 カメラ・オブスキュラから写真へという、従来の美術史では連続性において眺められるイメージ技術を、クレーリーは断絶として見る。その断絶は「見る主体」の位置づけの決定的な転回。ごく乱暴にまとめてしまうと、カメラ・オブスキュラでは見る主体は透明であるのに対して、19世紀、写真や視覚についての(疑似)科学の時代には、見る主体が対象化=客体化される。

 この図式は非常に生産性が高い。視覚にかぎらず、例えばリアリズム小説から(ポスト)モダニズム小説へという流れにも、このような見る(この場合は語る)主体の客体化が起こるわけだし(いわゆるモダニズム小説については語る主体の透明性は極限化される側面もあるが)、映画についても20世紀の間に非常に早送りでそのような転回が起きてはいないだろうか。すぐに思いつく「目の対象化」の極北ともいえる映画は以前紹介した(こちらベケット原作、アラン・シュナイダー監督、バスター・キートン主演のFilmである。また現代の視覚論の系譜となっている哲学的言説にも起こっている転回でもある。例えば現象学から『存在と無』のサルトルへ、そしてフーコーへという系譜。この系譜についてはこれを読まなくちゃ。しかし大冊。

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)