文化についてボンヤリ考えてみた

 どうも、今日書きこむのはこれで3回目なのだが、気になる本の読了が重なったこともあり、明日からしばらく書けないかもしれないということもあり(とか言って、またすぐ書いているかもしれないが)。

文化とは何か (松柏社叢書―言語科学の冒険)

文化とは何か (松柏社叢書―言語科学の冒険)

 頂き物を読了。「文化」をめぐるイーグルトンらしい偏向マッピング。頂き物なので言いにくいが、正直この一冊は切れ味がにぶい。かつて数々の理論を「十分政治的じゃない」とぶった切ったイーグルトンは「文化はそもそも政治的じゃない」という転向をなし遂げていて、それ自体時代の変化を考えれば正しい変節ではあるものの、最後の章、「共通文化に向けて」の、T. S. エリオットとレイモンド・ウィリアムズの文化論を検討した上での「文化をあるべき場所に」という結論は、どうにも、出発点(の前?)に戻って終わったという感じがしなくもない。

 これはイーグルトンを責めるべきなのではなくて、歴史の方を責めるべきなのかもしれないが。それほどの袋小路に「文化」が立たされているということだ。最後にデイヴィッド・エドガーからの引用をいくつかしているところにその袋小路っぷりが表れているかもしれない。その袋小路にあって、第二次世界大戦前後の華々しき(今は顧みられることの少ない)文化論争に立ち返ることは正しい所作だと思う。ウィリアムズの言う「残滓的なもの」との折り合いをつけるためにも。残滓的というのは、消えつつあるということではなく、小骨のごとく現在に違和をもって残り続けるものである。

 その残滓的なものを考える際に、「で、『高級文化』はどうなったのよ?」という問いが改めて必要かもしれない。いまさらエリオットやウィリアムズと口吻を合わせて「生活の全体様式」と言い募っても始まらないし。20世紀初頭の「高級文化」の地殻変動とは煎じ詰めると「スポンサーが代わった」ということにつきる。高級文化が商業化されたというのはもう聞き飽きたので、むしろ「公共事業化」されたというのはどうだろう。貴族文化なきあと、エリオットの「宗教」が文化のスポンサーになることはなく、むしろリーヴィスの世俗的リベラリズムが粘り強く生きのこったことは「公共事業化」のおかげと言わずしてなんと言おう。突然日本に飛ぶと、かつて高級文化を否定するという身ぶりを高級文化の枠内で行いながらも商業的成功を勝ち取った作家たちが政治家になって公共事業をぶっつぶすのは、皮肉でもなんでもなく、首尾一貫しているわけです。

 補足(8/27):「高級文化の公共事業化」だけでは、話の半分しか語っていない。「前衛の公共事業化」も裏面で起きたことは重要だろう。この辺、私は専門ではないのでぼんやりとしか知らないが、特に左翼的演劇運動が制度化された前衛芸術運動となったことと福祉国家の関連なども含め、戦前から戦後へという広い歴史スパンで、そしてジャンル横断的な視点で共同研究ができないだろうか。地味そのものだが重要な視点であると信じる。