分からない授業

 入学式。私の抱く感慨は、京都に来てからもう一年か……というもの。すっかり慣れたような気もするし、そうでない気もする。ただ、人間の適応能力というものにはいつもながら驚かされる。人間は、大量の外部刺激に対して感受性を高め続けては「もたない」ため、それに対して鈍感になろうとする。それが慣れることである。私がこの一年で何に関して鈍感になったのか、時には検査する必要があるだろう。

 本学では昨年度「学生満足度調査」を行ったが、その結果が今日知らされた。だいたい、教員としての経験と合致する結果。ひとつ「ふーん」と思ったのは、「大学で身につけたいこと」のアンケート結果だろうか。「一般常識やマナーを身につける」「コミュニケーション能力を身につける」という選択肢が上位なのだ。この二つが本当に身についていることは、ある意味どんな専門的能力を身につけるよりも、世に出るためには重要である。学生は、意外とその辺はよく分かっているということだ。

 それから気になるのは「授業は分かりますか?」という質問。「全て分かる」「ほぼ分かる」「分からない授業がある」などなどという選択肢に分かれていて、結果はまあこんなものかなと思った。しかし、同じデータも評価の仕方によってまったく違うことを語ってしまう。ひょっとすると、「全て分かる」が百パーセントになることを大学教育の理想と考える人がいないだろうか。全く逆で、大学の講義は全て分かってはいけないのだ。「教養」とは、分からないことがあるところに生じるのだから。というわけで、「分からない授業がある」という回答が一定の割合で存在することが、健全なる大学の姿といえよう。