英語だけゆとり教育

 この間、英語を教えて生計を立てている外国語文学研究者(という定義自体が問題の根源ではある)にとって触れずには済ませられないニュース。Asahi.comより。

 文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記し、教える英単語数も4割増とする。理数でも前回抜いた項目を復活。卒業必要単位数を74のままとしつつ、全体で学力向上を目指す内容だ。義務教育の学習が不十分であれば、改めて高校で学び直すことも初めて盛り込んだ。

 高校の指導要領改訂は03年度以来10年ぶり。理数は前倒しで12年度から実施する。

 高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国や韓国の教育基準並みになる」という。

 改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。文科省は「難しい文法までは英語で教えなくてもよい」というが、生徒や教員が対応できるか、教員養成のあり方とともに議論を呼びそうだ。

 なんとも暗澹たる予想がそのままに実現していく。

 何度も書いている(と思う)が、日本人は英語を「使えてきた」。でなければ、現在まで存在してきた翻訳書や、学問的なものにかぎらず行われてきた英語圏との膨大な情報のやりとりは説明がつかない。それでもなおかつ「使える英語」という言葉が学習指導要領の基礎となりうるのは、義務教育が終わっても英語で「おしゃべり」できるようにならない、という事実のためである。

 しかし、外国語の教育にたずさわっている人ならこの直感は共有するだろうが、この改訂案に従えばその結果産みだされる高校卒業者は、「おしゃべりも出来なければ、訳読もできない」、つまり、何もできない学生になるだろう。いや、英語圏に行ってハンバーガー買うくらいはできるようになるかもしれないが、そんな言語能力は膨大な公教育の結果としての「能力」と呼んではならない質のものである。

 というのは、私自身「英語で英語を教える」を部分的に実践した上での結論だが、それは単純な話、効率が悪い。効率が悪いどころか、それは多読法と同じく、「すでに知っていることを反復練習する」方法にしかならない。すでに出来上がっているはずの日本語能力はとりあえず括弧に入れて、第一言語であるかのように英語を「体得」させようというのは、バットの握り方を教えずにとりあえず素振りをさせ続け、その結果適切なバットの握り方を経験的に体得させるようなものである。そんなことせずに、さっさと言葉で握り方を指示すればよいのである。

 というかそもそも、「リーディング」と「コミュニケーション」を全く異質な言語能力であるかのようにとりあつかうこと自体(高校の英語科目名からは「リーディング」が消え、すべて「コミュニケーション英語」という不思議な名称──だって、コミュニケーションに使わない言語なんて存在しないわけで──になるという案なのである)、いかにも素人臭く、この改訂案に関わった人間に、英語ができてなおかつ英語教育にたずさわってきた人間が本当にいるのか、疑問に思うほどだ。

 しかし、上記の予測(何もできない学生が生まれる)はおそらく間違い。何が起きるかといえば、従来的な文法・訳読を教える場として塾・予備校の重要性が一層増す、ということ。つまり、この改訂案に名前をつけるなら、「英語だけゆとり教育」である。ゆとり教育とは、「金持ちは自力で教育すればいい」という格差社会肯定・促進のための教育であった。それを見直すふりをしながら、高校卒業時点での教育目標はどう見ても下げようとしているようにしか見えないのだから。(単語数を増やすことなどまやかしである。三千語なんて、本当の必要最小限かそれ以下の数なのだから。)

 義務教育のあり方として、これは純粋に「間違い」だろう。上記の比喩を使うなら、この改訂案の含意とは「バットの握り方は学校の外で教わってきて、素振りを学校でする」ということだから。逆だろう。学校ではせめてバットの握り方を教えろ、と。さらに素振りをしたければ外でやればいい。