下流化する団塊ジュニア

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 読んでる複数のブログで話題の『下流社会』。

 私自身はいわゆる団塊ジュニア世代(三浦氏の用語では「真性団塊ジュニア」)である。親は団塊の世代から微妙にずれるが。

 常々、この団塊ジュニア世代というものに、何らかの説明を与えてくれる書物がないことを不思議に思っていた。存在する書物の多くは、団塊ジュニアを上から見て説教を加えるもの。または、世代人口が多い=マーケットが広いゆえに、この世代をマーケティングの重要な対象とする類の本。

 本書を書いた三浦氏も、基本的には消費という観点から団塊ジュニア世代を論じてきた人だが、なんと言うか、単なる世代論的説教や純粋なマーケティングの対象をこえて、現代の「矛盾」として団塊ジュニア世代を見ているところがあって、注目していた(本人は現在40代後半であるが)。この本も、現代社会論のように受け取られているところがあるが、基本的には団塊ジュニア論であることを強調しておきたい。

 で、そのような団塊ジュニア論が出てくる時に、そのキーワードが「下流化」などというものになってしまったことには忸怩たる思いだ(それが現実なのであって、この本のせいじゃないけど)。まあ確かに、バブルに乗り遅れ、右肩上がりの希望が蜃気楼となってしまった後に世に出た団塊ジュニアが、低い階層意識を持ってもなんの不思議もない。本書でも論じられている通り、階層意識とは比較をもとにした差異の感覚なのであり、それは同時代の他の階層との比較よりも、時間軸上の比較、つまり10年前、5年前の自分と、現在そして予想される(もしくは予想できない?)将来の自分との比較であることの方が多いのだから。

 この本、多くの統計資料やアンケート資料が活用されているが、多くはサンプル数が少なすぎて統計資料として成立していない。しかし、そうゆう突っ込みは「ネタニマジレスカコワルイ」というものである。ほとんどトンデモ本に接近しながら結構核心をついている、そこが魅力だろう。

 さて、女子大勤めがしみじみとしてしまうのは、「下流化」が論じられる際に、女性と男性の場合が丹念に(?)区別されるのだが、それを読んでいると男性のおかれた状況そのものに括目すべき変化はなく、あたかも現在の変化の核心は女性のおかれた状況の変化であるように見える点だ。そしてそれは真実だろう。

 一言で言えばその変化とは、「就職→結婚→専業主婦」というライフコースの破綻、というより、そのライフコースが一定の階層に限定されてしまったことである。そんな中、女子大は有利な結婚に結びつくようなブランド力をつけることに専心すべきか(これは「伝統」のからむ問題なので、ほとんど不可能な課題)、それとも「ミリオネーゼ系」を目指して自己修養に励ませるべきか、それとも……と、大変悩ましいわけだ。

 (ちなみに、私は上記の「ライフコース」が幸福であるかどうかの判断は保留する。日々接している学生に対して、いい就職していい結婚しろよ、とも言えないし、結婚だけが女の幸せじゃないぞ、とも言えない。)

 もう一点、本書を読んでいて直感したのは、「家族」が分析対象もしくは単位として重要性を取り戻すだろうということ。と思っていたら内田樹氏も同様のことを書いてる。

 それから、一番のハイライトは、さりげなくコラムに滑り込まされている、「宮台真司・結婚」に対する痛烈な批判であろうか。