精読の効用

 Ulysses読書会。

 一字一句、精読していく。

 読書には様々なスピード、もしくはモードがあって、必要な情報だけを拾っていくようなスキミング、物語を一定のリズムで楽しむモード、一字一句で立ち止まる精読があり、また読む対象や状況も多様である(ウェブページをブラウズする、電車の吊り広告を眺める、家でソファーに座って読む、電車で30分の読書をする、外国語を辞書を引きながら読む……)。

 これらのどのモードが「正しい」ということはないが、少なくとも言えることは、「速読」と「精読」という二つのモードがあるとして、それぞれに「盲目と洞察」があるということだ。速読では読み落とされてしまう細部に宿る神は、精読によってしか見いだせないし、精読によっては見えない全体の布置というものがある(また、全体の布置という文脈に置いてはじめて見いだせる細部の神というものもある)。

 一方で、精読には魔力もある。Ulyssesのようなテクストを前にすると、それを精読・訓詁読解しつづけているだけで楽しく一生を過ごせそうな気分になる瞬間があるし、実際そのような一生を過ごした人たちもいる。もちろん、それで食っていけたからだけど。

 保守的かもしれないが(保守的とか革新的というのが有効な言葉ならばであるが)、文学者にして語学教師たる日本の「英文学者」の生きる道とは、精読にあり、などと考えながら読書会に参加する。

 忘年会は河原町御池のアイリッシュ・パブ。早くに夫を亡くされ、5人の子供を育て上げたI先生の穏やかな拡さに感銘を受けつつ、キャンペーン中で半額のJamesonで酩酊。