オリジナリティと一回性

 授業準備が終わったら半日翻訳解題。「神」が降りてきて、一気呵成に書き上げる。10枚くらいだけど。

 それを書きながら、「理論」について省察。インターテクスチュアリティとかいう考え方によって、今さら文学作品のオリジナリティなどということを正面切って言えなくなっているかたわらで、結構「理論」のオリジナリティという考え方は延命している気がする。もう本人は延命していないが、サイードなんて臆面もなくオリジナリティを語ったし、ジェイムソンもそうだなあ。しかし、さすがに現在「売れて」いる理論家にはオリジナリティというものはなくなって来ている。かといってそれに代わるものがないと固有名を付けて売れない。思うに、代わるものは「一回性」。状況の一回性であり、パフォーマンスの一回性。典型として頭にあるのはジジェクなんですがね。引用、自己引用(というか反復)、切り張りをいとわないが、エピゴーネンを出すことのない(出したとしても、どうしようもなく恥ずかしいことにしかならない)言語パフォーマンス。「真理」の契機が無効なわけだ。

 ところで、ジェイムソンの文章にがっぷりつきあったせいで、よく分かってきたのは、ジェイムソンの文章は「ロジック」ではないし「星座的布置」でもない。あれは「層」という言葉で一番良く表現できると思う。次々に、いろいろな議論の層を重ねていって、それらが響きあったり摩擦を起こしたり。

 ああ、変な「筆アドレナリン」が出て、止まりそうにないのでこれくらいで、寝る。