本日は本務校で「冷戦読書会」。M浦さんによるプロジェクト報告。
ひとことでまとめてしまうと、「文学史ではなく系譜学」ということである。冷戦初期に醸成されたリベラリズムと、そのリベラリズムに拘束されつつそれを生産した文学作品を読むポスト冷戦下(ネオリベラリズム下といった方がいいだろうか)の私たちは、当時「良きもの」として生みだされたリベラリズムの残滓、もしくはそれを収奪したネオリベラリズムに否応もなく拘束されて当の作品を読んでいる。逆の言い方をすれば、ポスト冷戦の私たちを拘束するものを理解するためには、ポスト冷戦の「系譜」としての冷戦を見なければならない。
という大枠には大きく首肯。ただ、なにせ題材がアメリカ文学+批評なので、部分的にしかついていけず。
しかし、上記のような系譜学に「ポストフォーディズム」を導入すればこれはかなり生産性のある枠組みが得られるように思った。「すべてから自由になること」を原則とするリベラリズムと個人主義が、政治から切りはなされたモダニズム純粋美学とともに冷戦期に「発明」され、それがアイデンティティ・ポリティックスへと流れこんだならば、ポストフォーディズムは、そのようなリベラル個人主義そのものを「名人芸」的労働へと収奪するのであり、そうだとすればアイデンティティ・ポリティックスを前提とする批評は絶望的にポストフォーディズムとの共犯関係に陥ってしまう。そのような死角からいかに抜けだすか。そこでリベラリズムという残滓を系譜学的に見直す。という、報告の肝の部分がいまひとつ共有されないままに読書会は終わってしまったようで残念。(しかも連日の疲れもあり読書会が終わってわたしはすぐに退散。それも残念。)
ところで昨日、「今話題?の明石書店」と書いたが、『週刊金曜日』の記事にあるとおり、去年結成された労組の組合員がねらい撃ちにされている状況らしい。労組の代表だった人が雇い止めにあい、組合員だけに残業禁止令が出されたり、懲罰的と思しき配置換えなどが行われ、団交にもまともに応じないとか。いやはや、あの明石書店の内実がそんなことになっているとは。ポスト冷戦、ポストフォーディズムがここにも。これじゃ、それこそ「貧困ビジネス」やっていたということになりかねない。一日も早い正常化(雇用者にとっての「正常化」じゃなくてね)を願っています。