- 作者: 玄田有史,曲沼美恵
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2004/07
- メディア: 単行本
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この言葉を流通させた玄田氏の本を読んでいると、ちょうど「文部科学省がニート対策に7億円を概算要求」とのニュースに遭遇。
この報に対して、玄田氏は歯がみしていることだろう。というのも、この7億円で行われようとしているのは、大学におけるキャリア教育の充実ということだから。そこには、フリーターやニートが問題になる際におなじみの人間観、つまり、ニートを生みだしているのは「職業意識の低さ」だとか「人生に対する甘え」だとする人間観が根本にある。
極めつけは、以下の文科省によるコメント。記事から引用。
「職業ガイダンス以外に、普段の授業の中でも、将来の目標や仕事について意識できるようなカリキュラムづくりが可能だ。就職だけでなく、どのような失敗や危機にも打ち勝てる『人生力』を身に付けてほしい」
来ました。「人生力」。「人間力」とか「得点力」とか、「〜力」という言葉が結論に来る際には、かならず説明しきれない余剰が隠蔽されていると言って良い。
ここで何が隠蔽されているかと言えば、それは玄田氏の著作に書いてある通り(『仕事の中の曖昧な不安』も参照)、ニートを生みだしているのは個人の能力や性格、意志ではなく、全体的な雇用構造だということ。
玄田氏も論じているが、ニートになる理由というのは、つきつめると「なんとなく」なのである。しかし重要なのは、ニートでない人間、職を持っている人間や職を探している人間も、ある意味すべからく「なんとなく」職に就き、「なんとなく」職を探しているのだ、という事実。これが分からず、人間には個人の意志というものがあり、職業もその意志によって「選択」するのだ、という観念から離れられない者たちが、ニートを「甘え」の名の下に断罪するのである。
しかるに報道された文科省の「職業教育」観も、おなじみの、意志と選択能力を持った個人という観念にべったりのものだ。
むしろ、大学で学生が学べることがあるとすれば、人間は「自由な選択」と「なんとなく」の狭間で葛藤しつつ、事後的に自分の選択を物語化し、それが「自由」なものだったと言い聞かせるのがせいぜいなのだ、また、たとえそのような物語化に成功しても、つねに「なんとなく」の亡霊がそこには取り憑くだろうということ。
「人生力」なる実体があり得るとして、それは確固とした目標を抱き、それに向かって邁進する力などではなく、そのような理想と「なんとなく」の狭間で程良いバランスを取る力ではないだろうか。「なりたい自分をみつけろ/になれ」などという定言命法は、むしろニートを量産するだろう。