私はロスト・ジェネレーション

 内田樹こんなことを言っている。ロスト・ジェネレーションについてのくだり。

 ロスト・ジェネレーションは既得権集団から権利と利益を奪い返せ、と煽る「奪還論者」について、

奪還論者が求めるのは、なによりも「能力や努力がそれに見合う成果によって補償される」社会的フェアネスである。
「私は高い能力をもち、懸命に努力しているにもかかわらず不当に低い社会的評価しか受けていない」という前提から彼らは出発する。
だから、社会的不公平を告発する人々は必ず「能力主義者」になる。
ならざるを得ない。

とのことだが、この前提が間違いである。奪還論者が、というより我々ロスト・ジェネレーションが求めているのは能力と努力に見合った社会的評価ではなく、能力がなくても努力しなくてもぼちぼち与えられる社会的評価なのだから。ベーシック・インカムをよこせ、失われたスタート・ラインを返せ、ということだ。

 それはともかく、団塊世代の一番最後にひっかかる世代の氏がこのような言説を繰り出す動機は明白だ。ここままじゃ老後が危ういから。

 世の中、煽動者がいてそれに騙される愚民がいるなどということはなく、煽動者は煽動が可能な社会的不満が鬱積したところに偶然現れるにすぎない。上記の奪還論者にしてもしかり。団塊ジュニアの不満は、明確なはけ口や代弁者を持たない分、いざ噴出すればかなり危険な事態を招来する可能性のあるかたちで鬱積している。

 それは昨今、世代間格差に対するルサンチマンという形を与えられつつある。老後を迎えた団塊世代を、団塊ジュニア世代はどのように扱うであろうか、考えるだに恐ろしい。

 そういうことだ。

大学を卒業してもろくな就職口がないというような時代は昭和に入ってからも何度もあったし、その責任を年長世代におしつけても、それで何か「よいこと」が起こるということはなかった。

とのことだが、それを言うなら状況は「おしつけてもおしつけなくてもよいことはない」状況なわけで、そのような状況下で勃発するやけっぱちの暴力ほど恐ろしいものはない。そういう状況下で、「おしつけない」を選択することこそ真に人間的選択なのだが、残念ながら100%「おしつける」を選択するのもまた人間性というものなのだ。

 そういうことだ。

 氏が恐れているのは「現代の姥捨て山」であり、その恐れは正鵠を射ているのだ。なんとかしなくちゃね。